悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

お金の流れでわかる世界の歴史 大村大次郎 その3

3連休とのことですが、私は今日も仕事でした。
敬老の日ということで、それほど忙しくもなかったのですが、明日は、連休明けということもあって、忙しくなりそうです。


今回で3回目になりますが、大村大次郎さんの「お金の流れでわかる世界史」です。

ちょっとペースを上げたいところですね。




第1章
第2章

tails-of-devil.hatenablog.com

 

 

第3章
第4章

tails-of-devil.hatenablog.com

 



 

 

第5章 海賊と奴隷貿易で”財”をなしたエリザベス女王

 

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このあたりから西洋史っぽくなってきます。
そして西洋の中でもイギリスがその中で抜きん出た存在になっていく様がわかりますが、その原動力となったのはやはりお金だったのです。

 

第5章のタイトルからして、イギリスという国がとんでもない国であることがわかりますが、何もイギリスだけではなく、ヨーロッパの国々はどこも似たりよったりの悪事を働いています。

マグナカルタ」って学生のときに習った記憶がありましたが、深い意味までは理解していませんでしたね。
1215年ですから、相当昔の話ですが、イギリスではすでに「国王が勝手に税金を決めたらアカンで!」ということを民に約束させられたのです。
当時のジョン王は戦争好きで、フランスといつも戦争をしては負けていました。
市民や貴族たちにたびたび戦費徴収を行ったため、王の廃位を訴えるのです。
追い込まれた王は、こんな約束をさせられることになったのです。

ただ、この制度によりイギリスの経済は他のヨーロッパの国とは違った歩みを見せます。
税金による戦費の徴収が難しくなったイギリスでは、他の収入源を探さざるを得なくなりました。
一つはまっとうな「商業発展」
もう一つは「他国からの略奪」なのです。
イギリスは16世紀にローマ教会から離脱します。
そしてイギリス国内の教会の財産を没収したのです。

その後エリザベス女王は国策として「略奪」を支援するのです。
まずは「海賊」。
エリザベス女王自らが海賊を作ったわけではないが、もともといた海賊を利用したのです。
フランシス・ドレイクという海軍提督はもとは海賊で、エリザベス女王がスポンサーになっていたといいます。
スペインの無敵艦隊を撃破するなどその手腕は優れていたにしても、元海賊が海軍提督というのですから、とても紳士的とは言えないですね。
当時、海賊行為というのはとてもボロ儲けできたようです。
人の財貨を奪う「盗人」ですからそれも当然かも知れません。
ドレイク率いる海賊船団は1回の航海で国家予算の1.5倍もの収入をエリザベス女王にもたらしたといいます。

ただし、海賊行為を行っていたのはイギリスだけではなく、どこの国も行っていたのです。
海賊とは言わずに私掠船とよんでいたそうですが、文字を見ていても反吐が出そうになりますね。
敵対国の船を拿捕することを国家が認めていたのです。
先進国と呼ばれる国はすべてそういうことをしてきた国であると言えますね。


大航海時代を先行した大国スペインと、後発のイギリス。
国同士の関係も悪くなりましたが、同時に宗教的にも敵対しています。

スペインはカトリックですが、イギリスはプロテスタントの国。

宗教戦争の意味合いも含んでいるのでした。

スペインもやられっぱなしではなく、「無敵艦隊」を率いて、イギリスを攻撃しています。
そこにはエリザベス女王所有の船もあったそうです。


イギリス発展のもう一つの経済の柱が「奴隷貿易」でした。
これも黒歴史の一つですね。

奴隷貿易ポルトガルが先行し、大国スペインがポルトガルから黒人奴隷を購入していたのです。

イギリスには当初奴隷貿易の権利がなく、いわば奴隷貿易は密輸という形でした。
やり方もえげつないのです。
イギリスは、海賊行為によってポルトガルの奴隷船を拿捕し、それをポルトガルの「正規価格」よりも安く奴隷を販売したのでした。
そして海賊が行ったというよりも女王の後押しがあったというのです。
先述した海軍提督にまで上り詰めたドレークですが、彼の師匠であるホーキンズが、イギリスのおける奴隷貿易の先鞭をつけたと言います。

ポルトガルはモチロン、スペインもイギリスの対して抗議をしますが、エリザベス女王はしたたかにのらりくらりと交わしたというのです。

ちなみにイギリスのリバプールは貿易の港として発展し、奴隷御殿と呼ばれる建物がたくさんあると言います。
とにかくイギリスは奴隷貿易でも抜け目なく利益を得ます。
そしてスペイン継承戦争という長い戦いの末、奴隷貿易の権利も得ることになります。

第6章 無敵のナポレオンは”金融戦争”で敗れた

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万年金欠だったヨーロッパの王たち
と聞くと意外な気がしますよね。
王といえば、有り余るお金に物を言わせて、贅沢な暮らしをしていた、というイメージしかありません。
しかし、当時のヨーロッパの王たちは借金まみれでその財政は大変だったようなのです。
その原因は国土はあっても全てが王の領土ではなく、貴族などの諸侯がそれぞれ領地を持っていて、王はそのまとめ役に過ぎなかったのです。
貴族や諸侯は税金を免除されていたりして、王の収入は直轄領からの税に頼るしかないのです。
しかし、中世のヨーロッパでは各国は戦争に明け暮れていました。
戦費の大半は国王が負担するために財政は厳しいのでした。
各国の王はヨーロッパ中の商人たちから借金をしていたわけです。
そして払えなくなると、破産宣告、デフォルトをして踏み倒したのでした。
踏み倒して返せないとなると、もう借金ができなくなるわけです。
そもそも借金をするような状態の人は借金なしでは生きていけない人で、それが借金ができなくなるというのは、ますます追い込まれるわけですね。


フランス革命も国王の借金が招いたのです。

フランス革命は市民が立ち上がって王を倒したというイメージが強いのですが、それではなぜ王が倒されることになったのか?ということです。
フランスも王が支配する国家だったのですが、何度かデフォルトを起こしているのでした。
財政が厳しい状況で国民にタイユ税という重税をかけます。
元々は戦争時に臨時に徴収された税なのですが、戦争後も廃止されずにそのまま税として徴収され続けていました。
しかし、貴族や僧侶などの「上級国民」は免税特権を持っていて、彼らはますます富みます。
そして庶民は重税であえいでいる状況でした。

フランス国民の3%の貴族が90%もの富を支配していたと言います。
富める上級国民は徴税請負人となり、国へ納めるべき税金を自らの懐に溜め込んでいくわけですね。

ちなみに、フランスの国家財政は火の車で、デフォルトも起こしたりしていましたので、信用がありません。
借金の金利が高く、国家予算の殆どが借金の利子で消えていくような状況でした。

フランス国王は財政を立て直すためにスイスの銀行家ジャック・ネッケルを財務総監に抜擢します。
スイスの銀行家兎のコネクションでお金の融通をしてもらいたいというところもあったと思われます。
いわば、銀行に融資を受ける代わりに役員を送り込まれるようなものです。

このネッケルは財政建て直しのために、悪しき徴税請負人制度の改革に乗り出しました。
当時のフランスでは徴税権と引き換えに富める人からお金を借りているのでした。
国はとにかく目の前に金が必要でした。
徴税権を得る人は当然のことながら国にお金を貸すほどのお金持ちで、彼らはますます豊かになります。
その反面、庶民は重税で苦しむことになるのです。
ネッケルは、ここに大胆に切り込んでいくのですが、当然既得権者たちの反撃にあいます。
彼らのネガティブキャンペーンにより、彼は窮地に立たされます。
ネガティブキャンペーンは「スイスの金持ちがフランスの富を横取りしようとしている」というものでした。
追い詰められたネッケルは自らの潔白を証明するために、当時は考えられなかった手段に出ました。
フランス国家の歳入と歳出の内容を国民に公表したのでした。
今でこそ当たり前に思えることですが、当時は秘密にされていたものです。
これがフランスの市民には大きな衝撃となったのです。


当時フランスの歳入は2億6000万ルーブルですが、王家の支出が2500万ルーブルもありました。
国民の年収が100ルーブル程度だったので、国民にしてみれば、衝撃的でした。

これによってネッケルは国民(庶民)の支持を得ます。
「彼は王家の浪費の数字を明らかにしたから潔白だ」というわけです。

ネッケルは国家の歳入歳出を明らかにしたので、一旦罷免されますが、国民の強い支持により復権します。
しかし、再び国王ルイ16世が罷免してしまうと、パリの市民は激怒し、フランス革命へと突っ走るのです。


フランス革命の頃にフランスには不世出の英雄が登場します。
ナポレオンです。

なぜナポレオンが圧倒的な強さを誇ったのか?
それは徴兵制にあると言います。

フランスは世界に先駆けて徴兵制を採用しました。
当時のヨーロッパでは軍の編成は傭兵が中心でした。
お金で雇われた兵士なのです。
当然維持費にも非常にお金がかかります。

徴兵制にすれば、その費用が劇的に下がるのでした。

当時のフランスは周りの国からは目の敵にされていたそうです。
各国は戦争ばかりしていましたが、実は複雑な婚姻関係でもあり、王たちはどこかで身内同士でもあったのです。
王政が倒されたフランスは周辺の国にとっては大変な脅威だったのです。
革命を潰しにかかったのでした。
周辺の国の干渉に対してフランスは「徴兵制」で対抗しました。
天才的な軍略家であるナポレオンは安い費用で軍を率いて周辺の国々をなぎ倒していきます。

しかし、広がった戦線を維持するのもお金がかかり、財政は厳しくなっていきます。
軍事的な天才も経済では素人だったと著者は述べています。

オランダを占領下においたときも、当時の金融の中心地であったアムステルダムを擁していましたが、それをうまく利用できず、高圧的に支配したため、アムステルダムの金融家たちは、ロンドンに逃げ込みました。
その後、ロンドンは世界の金融の中心地となっていきます。

ナポレオンは戦争で勝って賠償金を得ましたが、多額の借金を返済することはできず、せっかく手に入れた北米の植民地を独立したばかりのアメリカに1500万ドルで売却しました。
とてつもなく広大な土地で、アメリカが世界の強国へのし上がっていくきっかけとなります。

最大のライバルであったイギリスは進歩的な税制と国際により十分な軍資金がありました。
ナポレオンは経済的には完全に負けており、戦争もその後は負けるべくして負けたと言えます。

 

第7章 「イギリス紳士」の「悪徳商売」

イギリス人は事業を組織化をするのが非常にうまかったのです。
そのおかげでイギリスは覇権国家になったのでした。
前回お伝えしたように、海賊行為でさえも、国家として組織化したのです。

冒険商人たちの公開は、航海ごとに事業化されました。
出資者を募り、船や乗組員を準備するのです。
航海が成功すれば出資者に配当を払うという仕組みです。
1407年に、この形態で冒険航海事業が行われたといいます。

 

そしてイギリスが大国へとなっていくのは、有名な東インド会社の設立です。
1600年。
日本では関ケ原の戦いのときに、世界初の株式会社のモデルになった東インド会社を設立していたんですね。
ちなみに世界初の株式会社はオランダの東インド会社で、そこでは出資者の有限責任が明記されていたからとされています。
イギリスの東インド会社は東アジア(東南アジア全域)における貿易独占権を持つ会社で、イギリスはその地域における独占権を与える代わりに、マージンを取るという仕組みでした。
ちなみにイギリスでは、東インド会社を作る前にも会社はつくっているのです。
お金儲けの仕組みを作るのがうまかったのだろうと思います。
会社を起こす、出資者を募る、国が後押しするという方法ですね。

産業革命

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大英帝国が世界で最初に産業革命を成し遂げました。
蒸気機関による自動化が大きな転換となったのですが、蒸気機関そのものをイギリスが一から発明したわけではなく、そのしくみ自体はかなり昔からあるものでした。
それを実用化するのが早かったわけですね。

イギリスのジェームズ・ワットが蒸気機関を実用化することができたため、目覚ましい発展を遂げます。
蒸気船なども世界に先駆けて実用化したのもイギリスでした。

なぜイギリスが実用化が早かったのか?
資本力が高かったから思われます。

マグナカルタを経て、その後の名誉革命によって、イギリスの国家の財政は国王が勝手に決めることができなくなりました。
税を勝手に上げたりすることもできないわけです。

それにより、国家の経済政策、財政などは改革され、発展していったのです。
その原動力となったのが、イングランド銀行国債制度です。

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当時のヨーロッパでは国王が借金まみれであったのは、どの国も同じでしたが、イギリスは「国債」という形で、正式に債権を発行しました。
その後イングランド銀行が作られ、国債を引き受ける代わりに通貨発行権を得るという仕組みとなっていました。
民間の銀行家からの借り入れよりも随分と安い金利での資金調達が可能となり、国家の財政にも経済振興にも有利に働いていきます。

国家だけでなく、中央銀行であるイングランド銀行が作られたことにより、企業家たちも低利で資金調達が可能になり、産業の発展に寄与していきます。

イングランド銀行の成功で、世界はそれを真似て、中央銀行を設立するようになりました。

 


ここまでは良い面として描かれていますが、強い国家となってからも、イギリスの商売はかなり悪辣なことをやっています。
先述した奴隷貿易も継続しています。
スペイン、ポルトガル、オランダといった国の植民地を武力によって、ぶんどりなども行っています。


世界中の富を集めてますます富んでいくようになります。

ではなぜい小国のイギリスが世界中に広大な植民地を持つことができたのか?
それは植民地における各民族、部族たちの対立を煽り、植民地支配をしているイギリスへの反発を弱めることで、少数での支配を可能にしました。

例えば、インドではヒンドゥー教イスラム教の対立を利用しました。
古代からのインドにあるヒンドゥー教と新しいイスラム教は元々それほど対立することはなかったのですが、イギリスはあえて、ヒンドゥー教徒を優遇することでイスラム教徒との対立を生んでいくのです。
インドは独立するときもその対立は根強く残り、結果、ヒンドゥー教国家のインドと、イスラム教国家のパキスタンに分かれて独立することになりました。
現在もこの二国の啀み合いは凄まじいものがあります。

ビルマ(現在のミャンマー)での少数民族の迫害をする元になったのもイギリスの介入です。
スリランカも同様。
とにかくインドや東南アジアにおけるイギリスの支配は狡猾で、ひどいものでした。

中学生の歴史でも登場した「アヘン戦争」もイギリスの狡猾なやり方がもたらしたものです。
イギリスでは紅茶を飲む習慣がありますが、それはほとんど中国からの輸入でした。
すっかりイギリス人の食生活に欠かせなくなったので、中国との貿易収支は大幅に赤字となったのです。

この貿易赤字の解消に、アヘンの輸出を考えだしたのです。
東インド会社を使ってインドでアヘンを製造し、それを中国に売りつけ、その代金で中国の茶の代金に充てるというわけです。
アヘンの販売方法も狡猾でした。
繁華街にアヘン・サロンを作り、若い女性に接客させていたのです。
中国、当時の清の当局も、由々しき事態に手をこまねいていたわけではなく、アヘンの輸入や吸引を禁じ、アヘンの積荷を没収したりしました。
イギリスは、艦隊をもって清と開戦。
武力の勝るイギリスが勝利し、清は降伏。
事実上支配されるようになっていくのでした。

ボストン茶会事件
一方で、北米では、イギリスからの移民が植民地を収めていましたが、イギリス本国には代表を送り込んでいるわけではないため、本土に対して税金を収めるつもりはありません。

イギリス政府としては植民地での他国との争い、例えばフランスとの争いでの戦費の負担を北米の住民に求めたのですが、彼らは全く納税するつもりはなかったのです。

イギリス国民ですから、紅茶を飲む習慣があったのですが、それらを輸入するのは密輸でした。
北米で大量に茶は消費され、輸入されているのに、正規の貿易でないため、イギリスには関税が全く入ってきませんでした。

イギリス政府は当時大量に抱えていた東インド会社の茶の在庫を北米で売りさばこうと考えます。
しかし、密輸業者は、猛反発し、ボストンで茶を積んでいる東インド会社の船を襲い、茶を海へ投げ込んでしまうという事件を起こしました。
ボストン茶会事件」と呼ばれるものです。
これをきっかけに北米植民地に独立の機運が高まり、のちの独立戦争へとつながっていきます。


新興国アメリ
アメリカは現在でも以前強い影響力を持った国ですが、その歴史は250年程しかありません。
これほどの国になったのはどうしてなのか?

そもそも植民地にすぎなかった国なのですが、不思議に思います。
先進国で元は植民地だった国というのはアメリカ以外にはありません。

アメリカが超大国になった理由は、広大な領土と資源です。

元々イギリスから独立したときは13州しかありませんでした。
その後、アメリカはドンドン膨張政策を続けていきます。

そして植民地経営をしていたヨーロッパ諸国はドンドン手放していくのです。

植民地経営というのは、簡単ではなく、先住民との争いや植民地経営を安定させるまでに時間もかかります。
19世紀にはそういった植民地経営に旨味を感じず、財政的にも厳しいヨーロッパの国々は独立したばかりのアメリカに手にした植民地を売却していきます。

植民地経営がうまくいかないヨーロッパと違って、独立したアメリカは買い取った植民地は植民地ではなく、陸続きの「領土」です。

遠いヨーロッパから、様々なコストをかけて植民地を営む列強の国々とは条件が違いました。

国土が増え、次々に開拓をしていきます。
そして豊かなアメリカ大陸は様々な資源もあるのでした。

アメリカが大国になったのはいきなり高度な工業国になったのではなく、凄まじい規模の農園経営や豊かな地下資源がもたらしたものです。

特に石油は、今でこそ中東が産油国ですが、当時は圧倒的にアメリカが最大の産油国でした。
アメリカは産油国としてまたたく間に世界中の富を集めることになり、オイルマネーによって石油メジャーなどが誕生するのです。

アメリカが大国になったのには、イギリスからの資本もありましたが、内線が少なかったこともあげられます。

南北戦争などはありましたが、南米の諸国などのように植民地からの独立時には泥沼の内戦状態に陥り、安定した政権が誕生しませんでした。

アメリカは当時の西洋の知識人で理想とされる国家運営制度を大胆に取り入れました。
権力の集中を防ぐ「三権分立」や選挙によって運営する「民主主義」などです。
新しい国家で、変なしがらみなどがないからこそできたのではないかと思います。

そしてユダヤ

ユダヤ人は金融に長じた人々です。
ユダヤ人が行くところが次々に金融センターとなっているという歴史があります。

アムステルダムに住み着いたときにはアムステルダムが金融センターであり、彼らがロンドンへ移住してからはロンドンが世界の金融センターとなりました。

 

そして今、最もたくさんユダヤ人が住んでいる国はアメリカなのです。
そしてそのユダヤ人が多く住む街が世界の金融センターであるニューヨークです。

ウォール街という金融の街はユダヤ人が作り上げたと言われています。

 

 

第8章 世界を動かした「ロスチャイルド家」とは

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ロスチャイルド家という名前は有名です。
名前くらいは聞いたことがあるという人がほとんどではないでしょうか。

このロスチャイルド家ユダヤ人なのです。
大富豪として世界的に有名で名を残すことになったロスチャイルド家は、お金の歴史を語る上で欠かせない存在と言われます。

ロスチャイルド家の歴史

始祖と呼ばれるマイヤー・アムシェルは1744年にドイツ、ハノーバーで生まれました。
彼は金融を学び、古銭商を始めました。
古銭のコレクターは当時は珍しく、一部の貴族やお金持ちの道楽だったのです。
マイヤーは古銭を庶民からほとんどただ同然で仕入れ、お金持ちを相手に売り歩くようになります。

徐々にお金持ちとのコネクションを広めていくマイヤーは屋号であるロスチャイルドを名乗るようになりました。
徐々に貴金属などお金持ちが喜ぶ商品を扱うようになり、彼らと懇意になっていきます。
同時にお金持ちの財務の管理を引き受けるようになるのでした。
ドイツのフリードリッヒ大王の皇太子ヴィルヘルム公が彼の顧客となり、ヴィルヘルム公は傭兵を業として営みヨーロッパ随一の資産家に上り詰めます。
マイヤーも彼の財産運営にも深く関わり、マイヤー自身の事業も拡大するのです。

当時のヨーロッパには統一された通貨もなく、また為替も整備されていないため、様々な通貨の両替は、両替商人の判断によってレートが来ましました。
各国の実力がわかっていなければ、通貨の適正なレートは決められません。
ロスチャイルドはうまく運営するのです。

マイヤーには5人の息子がおり、フランクフルト、ロンドン、パリ、ウィーンに彼らを配置します。
息子たちと協力して為替という非常に難しいビジネスをやりこなしていくのでした。

第2章で述べたように、ココでもユダヤ人の特性が発揮されるのです。
放浪の民であったユダヤ人は各国に離散しており、それぞれの親戚や知人が世界中にいるわけです。
彼らはネットワーク(つながり)を駆使して、利益を上げていくのです。

19世紀初頭のヨーロッパはフランスの英雄ナポレオンに席巻されました。
このナポレオンの制服戦争に乗じて、ロスチャイルド家は、世界的な資産家へとなっていきます。

ナポレオンの征服によって、ドイツのヴィルヘルム公は亡命をしますが、彼の莫大な財産をロスチャイルドに託すのです。
当時ナポレオンに征服されていないイギリスには三男のネイサン・ロスチャイルドがいました。
ネイサンは多額のヴィルヘルム公の資産をイギリス公債を購入します。
そしてそれらを元手にしてビジネスをするのでした。
ワーテルローでの戦いでイギリスは勝利するのですが、その情報をいち早く掴んでいたといいます。
しかし、ネイサンは大量に保有していたイギリス公債を売却し始めます。
するとイギリス国内では資産家のネイサンの動きを見て、イギリスが劣勢であるという情報とともに一気にイギリスの公債は暴落します。
暴落したところで、ネイサンは二束三文で公債を買い戻しました。
しばらく後にイギリスの勝利が伝えられると、イギリス公債の価格は上昇し、ネイサンは巨額の利益を手にすることになりました。
もはやこのあたりは事実ではなく、伝説として伝えられています。
いずれにしてもナポレオンによる戦争時代に、かなり荒稼ぎをしたのは間違いありません。
10年間で資産を30倍に増やし、1825年には総資産1億フランにもなりました。
当時のフランスの中央銀行であるフランス銀行の資本金が6000万フラン出会ったことからも、いかに巨額のお金を持っていたのかがわかります。

このように隆盛を極めたロスチャイルド家も近代に入るとその影響力は下がりました。
もちろん現在も大富豪ですが、影響力は下がっているのです。
その理由は、アメリカ進出の遅れと株式会社化が遅れたことが原因と思われます。
イギリスのロンドンにおいて絶大だったロスチャイルド家ですが、その分新しいアメリカでの進出が遅れました。
また株式会社ではなく長らくファミリー経営でした。
1947年になってようやく株式会社化するのでした。
しかも株式会社化しても株主はすべてロスチャイルド一族。
一族以外のものが株主になるのは1960年以降のことです。

 

今宵はここまでにいたしとうございます。



 

 

 
 

第9章 明治日本の”奇跡の経済成長”を追う!

第10章 「世界経済の勢力図」を変えた第一次世界大戦

第11章 第二次世界大戦の”収支決算”

第12章 ソ連崩壊、リーマンショック 混迷する世界経済

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