悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

十二人の怒れる男 

画像はAmazonより

1957年の映画で全編モノクロです。
私もまだこの世に生を受けていませんが、この映画のタイトルは子供の頃から聞いたことがありました。
はじめて観たのは大学生の頃だったか、就職して間もない頃だったかだと思います。
当時モノクロの映画にハマったわけではないですが、ヒッチコックの「サイコ」とかも観て、モノクロの映画でも楽しめる作品があると思いました。

法廷ものと呼ばれる映画ですが、そのジャンルの中でこの映画を超えるものってあるのでしょうかね。
それくらい素晴らしい出来栄えだと思います。

この映画の解説をするほど何度も見たわけでもないのですが、とても印象に残っています。
おそらくこの映画の影響を受けた作品は多く、「12人の~」というタイトルの映画や劇などもとてもたくさんありますよね。

Amazonプライムで見られるようになったので、この機会に見ていない人は是非見てください。
というわけで、以前から息子に、これぞ名作!とうんちくを垂れて、視聴を薦めていたわけですが、今回息子と妻が寝静まった後に見ました。

最初は「面倒くさいな、この親父」と思っていたのかもしれません。
スマートフォンでネットを見ながらチラチラ見ていたくらいですから。
ところが映画も中盤になり、それぞれの陪審員が口論をする頃になると、画面に食い入るように見るようになりました。

この映画に正しい見方なんてものがあるわけではなく、味方によって色んな意見もあろうかと思います。

今更ながらこの映画についてまとめがてらにちょっとした考察を。

この映画の概要

監督:シドニー・ルメット

脚本:レジナルド・ローズ

製作:レジナルド・ローズ/ヘンリー・フォンダ

1957年アメリカ映画

上映時間:96分

製作費:350,000ドル

非常に低予算の映画で一つの部屋でのシーンに終止します。

あらすじ

父親殺しの疑いが濃厚とされた少年の裁判で、12人の陪審員に評決が委ねられる。
陪審員は全員一致で評決が決定する。
最初の投票では11人が有罪を指示するもたった一人の人間が無罪に投票し、この評決はもつれていく。
有罪が圧倒的に有利と思われたのは、目撃者の証言、被疑者の過去、曖昧な供述など、の状況が示している。
しかし陪審員8番の男はポツリとこぼす。
「たった5分で人の死を決めてしまってよいのだろうか」
圧倒的に有罪が優勢な状況の中、評決は紛糾する。

12人の陪審員

陪審員1番
筋肉質の陪審員の取りまとめ役としてこの裁判の進行役を務める。
マーティン・バルサム

陪審員2番
メガネを掛けた華奢な感じの男性。
気が弱そうに見えるが、慎重に物事を考える真面目なタイプ。
(ジョン・フィードラー)

陪審員3番
会社経営者で37人の雇用主。
しかし一人息子と仲違いしている。
個人的な事情から感情的になりやすく、墓穴をほっていく。
(リー・J・コップ)

陪審員4番
株式仲介人でメガネをかけている。
冷静沈着で論理的な人間。
(E・G・マーシャル)

陪審員5番
スラム育ちの人間で陪審員たちの中ではやや控えめ。
ボルチモア・オリオールズファン。
(ジャック・クラグマン)

陪審員6番
塗装工。
考えることは親方に任せ、自分は与えられた仕事を行うのみ。
人情に厚いタイプ。
エドワード・ビンズ)

陪審員7番
裁判に全く興味がなく、手に入った野球の試合が気になって仕方がない。
ニューヨーク・ヤンキースファンで、オリオールズのことはバカにしている。
有罪でも無罪でもどっちでもいいという言動に総スカンを食らう。
ジャック・ウォーデン

陪審員8番
建築設計士。
今回の裁判は明らかに有罪と見られ12人中11人が有罪。
ところが彼は今回の裁判そのものに疑問を抱き、もっと話し合おうと提起する。
(へンリー・フォンダ)

陪審員9番
おそらく今回の陪審員の中で最高齢。
ヨボヨボだが矍鑠としており、頭脳は明晰。
豊富な人生経験からユニークな意見をいう。
またとても冷静で鋭い観察眼をもっており、承認の矛盾をつく。
(ジョセフ・スィーニー)

陪審員10番
会社経営者で鼻炎のために鼻をかみまくっている。
貧困な人たちや移民に対して強い偏見を持っている差別主義者。
その酷さに陪審員たちは呆れ返る。
エド・べグリー)

陪審員11番
移民の時計職人。
真面目で、陪審員として責任感を持ってこの評決に臨んでいる。
(ジョージ・ヴォスコヴェック)

陪審員12番
パリッとしたスーツを着こなす広告マン。
スタイリッシュで弁舌も爽やかだが、意見をコロコロ変える。
(ロバート・ウェッバー)

この映画の見所とは?

法廷ものと呼ばれる作品です。
疑わしきは罰せずという刑法の原則に則ってどこまで公正にさばくことができるかということを一般人である12人の陪審員たちが喧々諤々となりながらも大いに議論していくのがこの映画の見所です。
ただ、表向きのそういう味方だけでなく、他の点でも見るべきところが多いです。
例えば、多くの人が簡単に「有罪」と決めつけてしまったのはなぜか?という点に注目してみると、それは同調意識、同調圧力といわれるもので、多くの人は真剣に考えることを知らず知らずのうちに放棄しています。
人間にとって自分の利益になることや自分に危険が迫ったときにはあらゆる知力を振り絞って突破口を見出そうとしますが、見ず知らずの他人に対しては、「どっちでもいい」というような態度で、みんながそう言うならそうなんだろうという感じなのです。
様々な意見を述べる場所でも、自分らしい考えの一つも言えずに、誰かが言った意見が良さそうなので、「私もそう思います」という人です。
もちろんそれが自分が一生懸命考えた末に出した回答であれば、文句はありませんが、その意見に至った経緯が「面倒だから」「早く終わらせようぜ」といった側面があると、それは自分の意見を放棄したことと同じです。
いわば民主主義における衆愚政治と同じで、ノイジーマイノリティの巧みな先導にのせられてしまう頭を使わない人たちの成れの果てと同じです。
このような一面をこの狭い部屋の中で暑苦しい男たちの話し合いの場に見ることができます。
端的に示しているのが7番のヤンキースファンの男。


次にそれぞれのキャラクターの背景を見ていくと、なぜそういう意見に至ったのかというのがあからさまになります。
それはどういうことかというと、論理的な言葉で固めても、裏を返せば偏見や置かれた背景に縛り付けられているということ。
10番の経営者のスラム街に住む人たちに対する考え方などその典型です。
あまりにその偏見がすごすぎて、他の人達がついにはドン引きしていく様はある意味痛快ではあります。

同調圧力を描いた作品でもありますが、これはディベートの教材としても優秀です。
いろいろな研修で題材として用いられたりしているようですが、なるほどと頷けます。
8番の男による疑問の提起。
彼は最初の投票で無罪に投票しました。
彼が「空気を読んで」有罪としたのなら、そこで終わりで映画にもなんにもなりません。
ところが彼は無罪とした。
論理的に説く8番の男性にあっては、このときの無罪の主張だけは論理的ではありません。
無罪とした理由は、論理的ではなく感情的に訴えたのです。
それが「たった5分で人の死を決めてしまっていいのだろうか」という言葉。
これは論理ではなく、人の心に撃ったけかけている言葉です。
人を動かすのは論理ではなく感情であるということですね。
そして揺れ動いた人たち、つまり隙ができ、その隙をついて論理的な話で詰め寄ります。
1対11の不利な状況から一人ずつ陣営を増やしていき、最後はねじ伏せていくこの狭い部屋で行われる男たちの言葉の戦いは見事です。

ここに登場する人物たちは絵に書いたような典型的な人物ばかり。
それ自体がステレオタイプの人物評と言えなくもないとあとになって思ったりしました。

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