悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

上級国民/下級国民 橘玲

画像はAmazonより

「無理ゲー社会」を読んだ後、「上級国民/下級国民」、「働き方2.0 vs 4.0」、そして「日本人というリスク」を読みました。

「無理ゲー社会」は知能社会というものがいかに残酷なものかを書いた本です。
公平、平等を謳っていながらも、人間には確実に能力に差があり、それをそのまま公平な元で競わせ、勝者と敗者に別れてしまう社会。
差が出てしまうのは本人の努力が足りないからという「自己責任」の押し付けが平然となされている社会を危惧したものでした。
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「上級国民/下級国民」にはサブタイトルとして「やっぱり本当だった。みんな薄々気づいている「言ってはいけない」分断の正体」と書かれているように、これを読むと余計に世代間論争に火が付きそうです。
本も売れてなんぼの商売ですから、タイトルというのはとても重要です。
私も「無理ゲー」という言葉に引かれましたし、「上級国民/下級国民」というセンセーショナルなタイトルに存分に煽られて読んだクチです。
で、内容がつまらなかったのかというとそんなことはなく、読んでよかったとは思います。

冒頭のまえがきから煽ってくるような言葉が続きます。
「池袋自動車暴走事故」の事件です。
あの事故は悲惨でしたが、事故を起こした人物がいわゆる「上級国民」で、アレだけの事故を起こしながら”さん”づけで呼ばれていたり、逮捕もされなかったと言った点です。
確かにあの頃から「上級国民」という単語があちこちで聞かれるようになりました。
”まえがき”にそれらの「上級国民」とされた人たちが誤った私的であることを論理的に説明していますが、「理屈」は不満を持つ庶民には受け入れられませんでした。
不満を持つ「下級国民」がどうして生まれてきたのか、という点をバブル崩壊後の労働市場の視点から説明してくれています。
また「上級国民」と「下級国民」が「モテ」と「非モテ」につながることも書いています。


「無理ゲー社会」よりも更に読みやすいイメージがありますが、読みやすさで上辺だけ読んでいると怒りがふつふつと湧いてくるだけの本にも感じます。
上流階級やエリートといった一部の人ではなく、男女の「性差」における差世代間における差を感じます。
団塊の世代」と「団塊ジュニア世代」をその対比として描かれています。
団塊の世代には彼らの言い分もあるとは思います。
著者も「団塊」世代ですよね。
平成=失われた30年で「守られた”おっさん”」と彼らを守るために犠牲となった世代ですね。
この対比が一番きついです。
不都合なことは全て若者の責任とされる世論形成で、バブル崩壊後の失われた30年で一番割りを食ったのは若い世代。
中高年の雇用という既得権が若年から仕事を奪ったというものです。
確かに「窓際族」だとか、部下のいない役職だとかかつてはありました。
そしてそれは年配の人間に与えられた「既得権」だったと思います。

労働市場がまともに機能していないことが大きいと感じましたね。
正社員と非正規社員との差も大きいですが、それは正社員にとっても悲劇です。
永遠に会社は続くものと言う根本的なところが崩壊している今、正社員にしがみついていても先はないと思いますけどね。
どこでどういう役職だったとかではなく、どういう仕事をしていて、どういう事ができるということが大事なんだと思いますね。

 

それ以上に恋愛格差、「モテと非モテも書かれているのですが、そこには男女における利害関係、動物としての差も書かれています。
このあたりの内容がとても興味深かったですね。
男女平等はもちろんなのですが、肉体的な構造の差、考え方の差というのは確実にあります。

引用しますと、

男は精子をつくるのにほとんどコストが掛からないため、自分の遺伝子を公正により多く残すのに最適な性戦略は、「(妊娠可能な)女がいたら片っ端からセックスする」になります。
~中略~
それに対して女は、いったん妊娠すれば出産まで9ヶ月かかり、生まれた赤ちゃんは一人では生きていけませんから1~2年の授乳期間が必要になります。この制約によって、生殖可能年齢のあいだに産める子供の数には限界があるし、出産後も男(夫)からの支援がないと母子ともども生きていけなくなってしまいます。最も重要な「支援」は安全の確保で、ついで旧石器時代を含む人類史の大半では動物の肉などの食料、農耕社会以降は穀物や金銭になりました。女性にとっての最適な性戦略は、長期的な関係を築ける男性を選び、そこから最大限の「支援=資源」を手に入れることなのです。
 進化論的には、「愛の不条理」とは、男の「乱交」と女の「選り好み」の利害(性戦略)が対立すること。

なんともまああからさまですね。
そしてこれらから導かれるのが「モテ」は「持てる」ことに繋がるわけですね。
つまりは資本主義における「富」を持つ人が「モテ」るわけです。

一方女性の「モテ」に関しては男性とは異なることを書かれています。
それが若い女性の「エロス資本」と述べられている部分です。
若い女性は大きな「エロス資本(エロティック・キャピタル)」を持っており、それを資本市場でマネタイズ(換金)している。
~中略~

10代後半から10年間で最大になって、それから徐々に減っていき、35歳を超えるとほぼ消失します。
これを文章にして書いてしまうのがすごいですね。
この希少なエロス資本を持つ女性は恋愛における幸福度で男性を上回っている理由と説いています。
つまりは「富裕」でなくとも「若さ」=「エロス資本」を最大限に利用することができる女性は男性ほどではないと説いています。
う~ん、個人的にはそこも男女に差はないと思うんですけどね。
「ジャニーズ」などアイドルに対する散財ぶりを見れば、女性アイドルにお布施をしている男性陣と変わらないと思うんですけどね。
何が違うんでしょうね。
確かにエロス資本を換金できる可能性は圧倒的に女性が高いと思いますが、「モテ/非モテ」という点で見るとそう変わらない気がしてなりません。

さて、「モテ非モテ」だけでなく、「格差社会」というものは避けようがなく、著者はこれらの現象は世界的に同時進行していると言います。

いつもながらに橘玲さんの本を読んでいると「なるほど」と感心することは多数あるのですが、どんよりとした気持ちにもなってしまいますね。

 

 

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