悪魔の尻尾

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超訳「国富論」 経済学の原点を2時間で理解する 大村大次郎

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超訳国富論」 大村大次郎

気がつけば今年もあと2ヶ月。
早いものです。

ずっと下書きのままになっていた「超訳国富論』経済学の原点を2時間で理解する」と言う本のまとめです。

ちなみにこの本を読むのに2時間は言いすぎでしょう。
速読すれば余裕で読めますが、じっくりと読むと2時間では足りないと思います。

 

この本の目次

はじめに
「神の見えざる手」は誤解されている
国富論」が生まれた背景
この本が伝えたい「たった一つのこと」

 

1.どうすれば私たちは豊かになるのか

2.「独占」こそが悪である

3.採算が合う貿易、会わない貿易

4.なぜ国民の教育がここまで重要なのか

5.税金は「公平」で「応分負担」に

6.国の浪費は始末に負えない

 

この本の内容

 



アダム・スミスは誤解されています。
「神の見えざる手」という言葉が独り歩きし、自由競争こそが一番いいと。

アダム・スミス国富論はそんな単純なことを述べているわけではありません。
その時代背景ごとの意味があったはずなのです。

アダム・スミスが「国富論」を書いた時代、経済社会が最低限のモラルを守るということを前提としていたのです。

なので、「国富論」の中には、
「最下層の人々の生活を保障するのは国家としての義務」
「労働者の賃金が上がれば人口が増え国力が上がる」
と述べられているのです。

為政者、財界といった人々が、アダム・スミスの「国富論」とりわけその代表的なフレーズである「神の見えざる手」を都合の良いところだけを抜粋してそれを実行しているのが現代社会であると説いています。

国富論が書かれたのは1776年。
今から245年も前のことなのですね。
時代背景も違いますが、現在でも通用する鋭い示唆に満ちていますね。

アダム・スミスは経済学の父として有名ですが、哲学者でもあります。
アダム・スミスの時代は、宗教(キリスト教)の影響が強い時代でもあります。
そして当時は宗教による道徳倫理観の押しつけがあり、彼は学者として客観的な分析で、人々が納得できるような理屈(説明)をつけたのです。
「共感や憐憫の情が安定した社会を作るための大事なスキームである」
こういった考え方が国富論の中にはたくさんありますね。

にもかかわらず、「国富論」=「神の見えざる手」=「個人的利益を追求すれば社会は幸福になる」というところばかりが強調されてしまっているのですね。
もうひとつの柱である「共感や憐憫の情が安定した社会を作るための大事なスキーム」と言うところと本来はセットになっているのですが、為政者たちの自分たちの都合によりそれらをオミットしてしまっていますよね。

 

国富論」は非常に柔軟に問題解決を図ろうとしています。
そのため、一つの原理原則にこだわっているわけではありません。
この本を通じて唯一貫かれている「国民全体が豊かにならなければ、国は豊かにならない」と言うことです。
すなわち、「国民全体を豊かにするためになどうすればいいか」ということです。


著者は、「経済をとにかく自由にして、金持ちがより金持ちになれば、やがてその恩恵が”下層”にも行き渡る」といった最近の経済理論がまかり通っていることに警鐘を鳴らしています。
「神の見えざる手」と言う言葉の誤用だと断じています。


国富論」だけでなく、経済学のテーマは、この本の最初の章である「1.どうすれば私たちは豊かになるのか」ということです。

この大きな命題に対して、アダム・スミスは序文で、
豊かさは「技術革新」と「適切な分配」から生まれる
と述べています。
まずは技術革新です。
そして得たものを「交換」することで更に生活を豊かにしてきました。
粗末な衣服さえも「分業」から生まれている 国富論第1篇第1章
「交換」が分業を発達させる 国富論第1篇第2章

分業、交換は「公正な市場」によって発達します。
では公正な市場を作るには?
労働者より経営者のほうが「圧倒的に有利」である 国富論第1篇第8章

労働者には必ず、家族を養えるだけの賃金を 国富論第1篇第8章

 

 

「強欲資本主義」と言う言葉もよく出てきます。
著者は、資本主義を否定していませんし、社会主義共産主義論者でもありませんが、「公平」な自由競争が行われていないと考えています。

アダム・スミスの「国富論」と正反対にあるのがカール・マルクスの「資本論」とされていますが、正反対ではありません。
マルクスは「自由な経済活動によって労働者が搾取される」ため、共産主義を掲げました。
アダム・スミスマルクスより100年も前に労働者が経営者よりも弱い立場にあることを認識していたのです。
当時はまだ産業革命によって大資本家と労働者という階級がそれほど明確に別れていなかったにもかかわらず、そうなることを予見しているのでした。


だからこそアダム・スミスは経営者にはモラルを求めていたのです。
経営者は、労働者が生活できるような賃金を与えるのは、言うまでもなく、当たり前のことなのです。

だからこそ、筆者は強く、現在のように「モラルのない、ただ欲に支配された経済活動」を批判しています。
日本の強欲経営者はその最低限のモラルもなく、「ワーキングプア」と言う言葉とともに多くの貧困を作っています。
日本の企業は非常に儲かっていたのも関わらず、「国際競争力のため」と言う旗印により、賃金を低いレベルにしてきました。
その結果、少子化は加速し、国の存亡さえ危うくなっています。
国富論の逆を行ってきているのです。
少子化を解決するには若年層の貧困問題を解決することです。
結婚したくても経済的な理由でできない、子供を作りたくても経済的な理由でできないというのは全くダメな政策。

下層の人々が豊かになることが「社会にとっての最善」 国富論第1篇第8章
労働賃金上昇が、人々を勤勉にさせ、人工を増加させる 国富論第1篇第8章

「大資産家が何世代にもわたって続く」と言う弊害 国富論第3篇第2章

国内、海外、中継取引…最重要なのは「国内取引」 国富論第2篇第5章

自分の利益追求が「神の見えざる手」に導かれて社会の利益になる 国富論第4篇第2章

ようやくここで「神の見えざる手」と言う言葉が登場しています。
こればかりがクローズアップされたのはやはりいびつな解釈と言わざるを得ません。
冒頭からはかなり読み進めた第4篇になってようやく登場したこの言葉ですから、アダム・スミスはそれほど重要な言葉とは思って書いたわけではないのです。

 

”社会のため”の事業が本当に社会のためになった話を聞いたことはない 国富論第4篇第2章

大英帝国の繁栄の理由は、最下層の人々の人権も保障されていること 国富論第4篇第7章

 

国富論に書かれている内容を見ていくと、どうみても自由競争、市場メカニズムが万能であるとは書かれているわけでなさそうです。


悪徳商人は「独占」を目指す 国富論第1篇第7章

アダム・スミスは独占を批判していますが、その中でも強く批判しているのが、「公的に仕組まれた独占状態」です。
独占の対義語として「市場の自由」を主張していたのです。
「神の見えざる手」、「自由な市場」というのは当時の背景があるのです。

独占がこうこうすれば、物価は最悪の状態になる 国富論第1篇第7章

経済が自由であれば物価は自然なところに落ち着く 国富論第1篇第7章

と、独占による物価絵の影響、国民の生活に直結することです。
同時に、

独占の撤廃は「ユートピアの建設」くらい難しい 国富論第4篇第2章

と独占は決してなくならないとも認めているのです。

独占の影響が少なかった北アメリカが経済発展したのは独占的貿易会社がなかったからだと述べています。

そして独占は一時的にその特定の商品を潤す事があっても、

独占は、その利益を享受する商人たちを堕落させる 国富論第4篇第7章

とも説いています。

 

 

国富論の中でアダム・スミスが述べている言葉を現在の社会に当てはめて解説しています。
細かい点は色々ありますが、最終的に豊かになること、国が富むということはどういうことなのかという点にも触れています。

生産性を上げることが国を豊かにする鍵であり、そのためには「国民の質」を高めることが最大の要素だと述べています。
「優秀な国民を育てる」ということです。

豊かな国になるというのは、土地が肥沃であったり、資源があったりするというイメージがありますが、それだけで豊かになった国はあまりありません。
いちばん大事なのは、国土が豊かかどうかではなく、国民が優秀かどうかだと言っています。
そのために重要な要素は、「教育」です。
大英帝国が反映したのも他のヨーロッパ諸国に比べて教育制度が充実しているからで、日本も明治維新以降急速な発展を遂げたのは教育制度を整えたからだと言えるのです。

国の富は「優秀な国民がどれだけいるか」にかかっている 国富論序文


教育を大事にしなくなった現代日本に対して、筆者は警鐘を鳴らしています。
大学生の奨学金は名ばかりの奨学金であり、彼らの未来の足かせとなる有利子負債なのです。
不況で親たちの経済的余裕がないところに、大学の授業料の大幅な値上げが行われたのです。

富裕層は、子供のために教育費を出します。
しかし、庶民はそれができません。
以下にして庶民に教育を施すかが、国を豊かにするための鍵です。

国は庶民の教育にこそ力を入れるべき 国富論第5篇第1章



アダム・スミスは大学教授でもあったため、大学改革についても述べています。
彼はかなりユーモアもあり、人気の高かった教授ですが、教育者には、競争原理が働かず、教育の質や向上に繋がらないというのです。
このあたりは昔から言われていますが、よりよく学んでもらうための工夫もなく、10年以上も同じテキストを使って教えている教師も、創意工夫をしてより質の高い教育をしようとする教師も同じ給料であったりします。
それ以上に、学生が教師を選べないということにも問題があるでしょう。
受験のときに選択肢はありますが、一旦大学に入ってしまうと、学生にはそれほど選択の余地がないのです。
大学よりも下になるとなおひどい状況になります。
公立の小中学校だと自動的に生徒が割り振られます。
学校は生徒を集める努力は不要なのです。
魅力的な学校を作るような工夫は不要なのです。
教師も一度採用されれば、よほどのことがない限りクビにならず、教えるのが下手な教師であっても、指導力を向上させたりする仕組みも、できない教師を淘汰する仕組みもありません。

学生は教師を自由に選べるようにするべき 国富論第5篇第1章

競争がない、教育機関
そのため教育機関の質の向上が必要。
世界中の課題としています。

 

アダム・スミスは国を豊かにする鍵は「高度な分業」にあるとも述べています。
そして「高度な分業」を確立するためには、単純な作業に押し止めるのではなく、十分な教育を受け、社会の変化にも対応できるようにすべきなのです。
経済発展や科学の発展によって、職を失う人が出てきます。
その時に、余剰となった労働力をスムーズに他の分野に移動させることができれば、経済は遅滞しません。

税金の4つの原則
「公平」「明確」「簡便」「低コスト」 国富論第5篇第2章
著者は税金のプロですが、アダム・スミスはこの時代にあってすでに税金には大切な4つの原則があると説いています。

しかしながらこれが守られているとは到底言えないのが現状です。
ヨーロッパの中世にはびこった「徴税請負人」のようなひどい状況ではないものの、「公平」とは言えないです。

サラリーマンばかりがその負担を担っています。
税金は取れるところから取るということがまかり通りすぎています。
本来は担税力に応じた税負担こそが「公平」なはずです。


あらゆる階層の人の「担税力」を見極めよ 国富論第5篇2章

 

この本の感想

毎度のことながら、大村大次郎さんの本はやはり国税、税務署という税を取る側の仕事をやってきた人ならではの切り口になっています。

それにしてもアダム・スミス=自由競争と言う図式がとても便利に使われてきたのだと思うのです。

自由競争に任せた結果、世界大恐慌を引き起こし、そこにジョン・メイナード・ケインズが登場しましたが、経済学って、結局は世の中の背景に合わせて色々な考え方が出てくるものだと痛感します。

しかしながら、経済の舵取りをするのは「政治家」です。
その政治家にとって、都合の良い経済理論は採用されやすく、ケインズは随分と利用されて来たと思います。

今の日本にもケインジアンはたくさんいます。
巨額な公共投資で景気浮揚を図るというものですね。

しかしその公共投資がそのものが目的化してしまい、一部のものの既得権となってしまっているところがあります。
公共投資は効果はあると思いますが、それは劇薬でもあるし、麻薬のようでもあります。
公共事業がないと生きていけなくなる地方など、、もはや経済の自立は不可能でしょう。

バブルを招いた、前川レポート、第4次全国総合開発計画四全総)などを少し思い出しました。
当時の私はまだ学生から新人社員の時代。
経済の勉強もしてませんでしたから、何のことやら全然わかっていませんでしたが、今になって、ようやくよく分かるようになってきました。

 

アダム・スミス国富論は「孫子兵法書」に似ていると感じました。

未だに名著として多くの経営者や政治家たちに愛読されている「孫子」。
そこにはあらゆる状況に柔軟に対応できるように書かれています。
それは読み方で様々にも読めるものであり、「国富論」もそうなのだろうと思うのです。

都合の良い部分を浅い解釈で採用する為政者によって、アダム・スミスも大分利用されてきたのでしょう。

 

 

それほど長い本ではないですし、私のように経済の素人でも十分読める内容ですし、需要供給曲線などのモデルが出てきたりもしません。

とても読みやすかったです。

政治経済に多少興味のある人は一読をオススメします。

 

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