悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

自分のアタマで考えよう byちきりん

このブログを書き始めてほぼ2年になる。
もともと何か表現したい目的などがあったわけではないが、続けているうちに毎日何かは書いておこうと習慣付けて書くようにしている。
後になって読み返したりすることはあまりないけれど、自分の記録みたいなところもある。
ネタは日々のこと、うまいものを食べに行ったり、出かけた写真を載せたりとか、当たり前の何の変哲もない素人の日記。それと新聞やネットで話題になっているようなこともついつい愚痴りたくなったりして書いている。
はてなというサービスを使っていることもあって、そこで自然によく目にする[Chikirinの日記:title=「ちきりんの日記」]というものを見て、面白いなあと感じるととも。多くのファンが居るというのもうなずける。
ほぼ私と同世代くらいかな?とも思うが、生きてきた道は大きく違うんだろうと思う。ちきりんさんのように自分のアタマで考えようという気持ちは強いものの、自分ははっきり言ってそういうことが最も苦手なタイプかも知れない。
この本が出たことは知っていたが、Amazonでポチッとなという感じで買ったわけではない。女房とランチの後に本屋へ行き、そこでふと手に取った時に「読んでみようか」と思ったのである。
考えるということを再確認するための本だと感じる。
「知識」との分離
本を読んだことで知ったことになっている。そういう自分がいることを知っている。情報を得て、それを加工し、いかにも自分の持論のように勘違いしていないか。私も含めてそういう人間は多いと思う。
「なぜ?」「だからなんなの?」というプロセスを常に習慣付けているというのはすごいこと。長い間、自分のアタマで考えるという行為を忘れている人間にとってすぐにそういうことを問いただすことができていない。
比較というのも考えるという作業にとっては重要なツール。比較の方法も非常にわかりやすく具体的に書かれている。だからといってすぐに真似できるとは思わないけれど、意識付けることはできるかもしれない。
判断基準を取捨選択することも大いにうなずける部分。あれもこれも情報過多でどれも捨てきれず、身動きがとれないというのはどこにでもよくあること。切り捨てることも重要。
レベルをごっちゃにしないというのも私のようなおっさんによくある話。
この本では知識を得ることを否定はしていないが、考えるということとは別物だということを何度も言っている。
怖いのは本を読んで自分の意見にしてしまうことかもしれない。いかにも自分が考えて導きだした答えだと勘違いしてしまうと、その人はもうどうしようもない。知識は知識。思考とは違う。
現在は知識の相対的な価値は落ちていると思う。検索能力の高い人ならたちどころに様々な知識を得ることができる。それらの知識をそのままアウトプットしていればそれは考えるという事ではない。そこに独自の視点で導解をき出す行為が考えるという行為ではないのか。そのために独自のフィルターを持ちなさいとも書いている。

なかなかできることではないけれど、ブログを書くというのも考えるということの一つにはなるのかなとも思っている。
ネットにアクセスして人のブログを読むのは役だ。そのブログにリンクを貼るのもいい。
自分の言葉で語るのはやっぱりなかなか大変。

そんなことをぼんやり考えている。

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

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