悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

鬼と人と 堺屋太一

画像はAmazonより

堺屋太一さんの歴史小説「鬼と人と」を読みました。
いつものようにKindleにて通勤や休憩時間の合間に読みました。


文庫版への序文というものがありました。
著者である堺屋太一さんが、この小説を角に当たり、考え抜いた上での試みであったことが伺えます。
小説ですが、独特の形式で描かれています。
覇王織田信長の独白という形式で語られる部分と、有能で忠実な部下の明智光秀の独白という形式で語られる部分が交互にくるという流れで進んでいきます。

織田家には光秀のような優秀な武将は他にもいるのですが、この小説では語ることはありません。
全ては信長と光秀が一人称となって彼らの言葉でこの時代の武将たちの姿が描かれます。

天正10年(1582年)3月14日(太陽暦4月16日)から始まります。
場所は信濃浪合、武田勝頼を討滅した後の首実検のシーンからです。
時代の変革者である信長と有能ではあるものの古い時代の感覚から抜け出すことのできない光秀の対比が延々と描かれていきます。
信長と光秀。
この裏切りや殺し合いが延々と続いていた戦国時代にあっても、この二人が起こした「本能寺の変」という事件は戦国時代のみならず日本史でも最大級の事件でしょう。
謎に包まれている部分もあり、昔から様々な切り口からこの事件の発端となる原因が色々と考えられてきました。
そんな中、この主要人物二人に語らせながら、この事件の真相に迫ろうという実験的な小説でもあると思います。
本当に読み応えもあり面白いです。

信長といえばこれまで直情的で短気、機嫌が悪いときは部下に対しても容赦ないというイメージが先行しています。
ところが、信長は歯向かう敵(武士)や役に立たない部下(武士)に対しては厳しい人物ですが、民百姓にはそれほど嫌われていません。
もちろん延暦寺の焼き討ちや本願寺とのたび重なる戦いで仏敵として宗教界からは嫌われまくっているイメージがありますが、そうでもないのではないかと思うようになりました。
まずはキリスト教の布教に対しては寛容ですし、寺社仏閣に寄進もしています。
信長は宗教そのものが嫌いなのではなく、その力を利用する人間たちが嫌いなのです。
そして、彼の独白を読めば、その理屈は非常に筋が通っています。
この時代の常識という面から見ればかなり走りすぎているとは思いますが、現代社会から見れば当たり前のことばかりなんですね。
彼は暴君でも何でもなく、彼の描く理想の社会、既得権を持つ小物たちが己の欲得のために民百姓の迷惑を顧みず小競り合いを繰り返している=戦国時代、その戦国時代を終わらせるために彼は武力を持って天下統一するという目標を掲げてそれに邁進するわけです。
そういった高い理想は自分がまだ脆弱な基盤しか持たなかった頃はいくら「天下布武」を語っても誰も付いてこないでしょうが、国を掌握し、隣の美濃を攻略した頃からは明確に「天下布武」を部下たちにも徹底的に叩き込んできたことでしょう。
自分自身が殻をつけるまでの間は、様々なことで自分を曲げてきました。
そういった点で信長のことを堺屋太一さんは「小さな短気と大きな根気」の持ち主だと評しています。
武将としては大軍を持っても分の悪い戦も数多く、決して「武力」一辺倒の武将ではありません。
ただ、戦は物量で決まるということを早くから見抜いていた慧眼こそが信長という人物の最大の長所で、まさに「大政治家」「革命者」です。
天下布武」でもって旧来の武家社会を破壊していきます。
いや、武家社会だけではないですね、日本の旧来の仕組みそのものを変えようとしているんですね、現代的な非常に合理的な考え方で。

合理的な考えた出ていた部分をいくつか引用します。
信長の独白です。
俺が責めているのは「何をしたか」であって「誰がしたか」ではない。ましてやどんな地位称号の奴かなど、知ったことではない。誰がしようが罪は罪、それに徹しなければ公正な仕置はできぬ。
これを今のジミントーたちに聞かせてやりたいですね。
バッジを付けてふんぞり返っているセンセーたちですが、偉くもなんともない。

俺は多くの寺を焼き、大勢の坊主どもを殺した。寺が嫌いなのでも坊主が憎いのでもない。仏に祈り神を祭って気の収まる者はそうすればよい。法華であろうが浄土であろうが、神道だろうがキリシタンだろうが、おのおの好きに祈り好みで祭ればよかろう。俺が許せぬのは、寺でありながら大名の如く領地を貪り、坊主でありながら武士のように戦に加担し、民を苦しめ世を乱す輩だ。
これもそのままその通りですよね。
信心、信仰に生きるものは自由に祈ればよいでしょう。
ただ、人の人生に口出しをしてきて、更には政治にも口出しをして、人はこうするべきだと説く。
もちろん素晴らしいことを言っているものもありますが、多くの宗教は自分の宗教を優先するために他の宗教を攻撃します。
そして力を持つために信者を動員し、洗脳し、兵士へと駆り立て戦わせますよね。
今もそれは同じです。
日本では宗教による殺し合いこそ起きていませんが、その基盤を拡大することのみに力を注ぎ、そのために多くの財貨を「浄財」と称して集めています。
統一教会然り、創価学会然りですよね。
あらまあ、統一教会創価学会も政権与党がついているじゃないですか、ジミントーとコーメートーですよね。
本当に馬鹿らしいです。

さて、いつものように脱線してしまいました。
話を戻します。
飼い犬に手を噛まれたような状態に陥った「信長包囲網」。
そしてそこには足利義昭朝倉義景、六角承禎、浅井長政といった有力武将とともに必ず登場する武田信玄という巨星がいました。
信玄にはずっと下手に出ていたのはやはり彼との直接対決はただごとでは済まないという気持ちもあったと思います。
独白の中では、信玄が吹聴して作り上げてきた虚像に踊らされてきた民衆で、信長自身もその幻に惑わされたが、あまりにあっけなく、勝頼でなく信玄本人だったとしても自分が勝つに決まっているという絶対的な自信を持っています。
その自信はやはり時代が変革を望んでいるということでしょう。
民兵であった当時の戦国武将はフルシーズンで戦えず、その弱点を知り尽くしていた信長は、銭で兵を養う軍団を作り上げ、「兵農分離」を最も早く成し遂げます。
そして商業による経済活性化で他の大名よりも圧倒的な経済力を持って、新時代を築いていく鉄砲を主力兵器にしていきます。
その後も大筒やら鉄甲船やら、当時は考えもつかなかったようなこともどんどんチャレンジしてものにしていきますよね。
政治、経済、軍略、いずれにおいても大きく時代が動きました。
やはり天才なのでしょう。
そんな天才信長が光秀に目をかけていたのは、彼の優秀な頭脳であれば自分の考えていることくらいはわかるだろうと思っていたからでしょう。
この物語ではもちろん小説なので、信長の独白や光秀の独白が記録に残っているわけではないのですが、ちょっとしたボタンの掛け違いで大きくずれていってしまうんですね。
光秀はずっと信長に対して大きな感謝をしていました。
そして絶対に裏切ることはないと、裏切る寸前までそう思い込んでいたのですが、度重なるボタンの掛け違いによって信長は「鬼」に見え、「鬼」を倒すための千載一遇のチャンスが転がり込んできたため、発作的に謀反を起こしたような流れです。
だからこそ、万事用意周到なはずの光秀が、事前になんの準備もせずにこのだいそれた謀反を起こしてしまったんですね。
後から彼は、独白の中でアレもやっておくべきだった、これも先に手を打つべきだったと後悔するわけですが、発作的にやっちまった謀反ですから、なんにも考えていなかったということですね。
あの卒のない光秀らしくもないというところです。

面白いですね。
堺屋太一さんの文章のパワーもあると思うのですが、謎の多い本能寺の変の本当のところはこんな感じだったのではないかと思ってしまいます。
それにしても信長を討った後、手にした金銀に喜び沸き立つわけですが、効果的な使い方ができず、死に銭の使い方でした。
なんの力もない朝廷や公家連中に真っ先にお金を使ったわけです。
やっぱり時世が読めていないというか、わかってない。
だからこそ、自分が味方と思っていた細川親子をはじめとして、筒井順慶なども日和見を決めてしまいました。
誰も彼の行動に賛同してくれなかったわけです。
学校の番長をやっつけていい気になり、自分はみんなから好かれるだろうと思っていたら、全然好かれなかったというとてもわびしい結果ですね。

上級国民/下級国民 橘玲

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「無理ゲー社会」を読んだ後、「上級国民/下級国民」、「働き方2.0 vs 4.0」、そして「日本人というリスク」を読みました。

「無理ゲー社会」は知能社会というものがいかに残酷なものかを書いた本です。
公平、平等を謳っていながらも、人間には確実に能力に差があり、それをそのまま公平な元で競わせ、勝者と敗者に別れてしまう社会。
差が出てしまうのは本人の努力が足りないからという「自己責任」の押し付けが平然となされている社会を危惧したものでした。
tails-of-devil.hatenablog.com0

 

「上級国民/下級国民」にはサブタイトルとして「やっぱり本当だった。みんな薄々気づいている「言ってはいけない」分断の正体」と書かれているように、これを読むと余計に世代間論争に火が付きそうです。
本も売れてなんぼの商売ですから、タイトルというのはとても重要です。
私も「無理ゲー」という言葉に引かれましたし、「上級国民/下級国民」というセンセーショナルなタイトルに存分に煽られて読んだクチです。
で、内容がつまらなかったのかというとそんなことはなく、読んでよかったとは思います。

冒頭のまえがきから煽ってくるような言葉が続きます。
「池袋自動車暴走事故」の事件です。
あの事故は悲惨でしたが、事故を起こした人物がいわゆる「上級国民」で、アレだけの事故を起こしながら”さん”づけで呼ばれていたり、逮捕もされなかったと言った点です。
確かにあの頃から「上級国民」という単語があちこちで聞かれるようになりました。
”まえがき”にそれらの「上級国民」とされた人たちが誤った私的であることを論理的に説明していますが、「理屈」は不満を持つ庶民には受け入れられませんでした。
不満を持つ「下級国民」がどうして生まれてきたのか、という点をバブル崩壊後の労働市場の視点から説明してくれています。
また「上級国民」と「下級国民」が「モテ」と「非モテ」につながることも書いています。


「無理ゲー社会」よりも更に読みやすいイメージがありますが、読みやすさで上辺だけ読んでいると怒りがふつふつと湧いてくるだけの本にも感じます。
上流階級やエリートといった一部の人ではなく、男女の「性差」における差世代間における差を感じます。
団塊の世代」と「団塊ジュニア世代」をその対比として描かれています。
団塊の世代には彼らの言い分もあるとは思います。
著者も「団塊」世代ですよね。
平成=失われた30年で「守られた”おっさん”」と彼らを守るために犠牲となった世代ですね。
この対比が一番きついです。
不都合なことは全て若者の責任とされる世論形成で、バブル崩壊後の失われた30年で一番割りを食ったのは若い世代。
中高年の雇用という既得権が若年から仕事を奪ったというものです。
確かに「窓際族」だとか、部下のいない役職だとかかつてはありました。
そしてそれは年配の人間に与えられた「既得権」だったと思います。

労働市場がまともに機能していないことが大きいと感じましたね。
正社員と非正規社員との差も大きいですが、それは正社員にとっても悲劇です。
永遠に会社は続くものと言う根本的なところが崩壊している今、正社員にしがみついていても先はないと思いますけどね。
どこでどういう役職だったとかではなく、どういう仕事をしていて、どういう事ができるということが大事なんだと思いますね。

 

それ以上に恋愛格差、「モテと非モテも書かれているのですが、そこには男女における利害関係、動物としての差も書かれています。
このあたりの内容がとても興味深かったですね。
男女平等はもちろんなのですが、肉体的な構造の差、考え方の差というのは確実にあります。

引用しますと、

男は精子をつくるのにほとんどコストが掛からないため、自分の遺伝子を公正により多く残すのに最適な性戦略は、「(妊娠可能な)女がいたら片っ端からセックスする」になります。
~中略~
それに対して女は、いったん妊娠すれば出産まで9ヶ月かかり、生まれた赤ちゃんは一人では生きていけませんから1~2年の授乳期間が必要になります。この制約によって、生殖可能年齢のあいだに産める子供の数には限界があるし、出産後も男(夫)からの支援がないと母子ともども生きていけなくなってしまいます。最も重要な「支援」は安全の確保で、ついで旧石器時代を含む人類史の大半では動物の肉などの食料、農耕社会以降は穀物や金銭になりました。女性にとっての最適な性戦略は、長期的な関係を築ける男性を選び、そこから最大限の「支援=資源」を手に入れることなのです。
 進化論的には、「愛の不条理」とは、男の「乱交」と女の「選り好み」の利害(性戦略)が対立すること。

なんともまああからさまですね。
そしてこれらから導かれるのが「モテ」は「持てる」ことに繋がるわけですね。
つまりは資本主義における「富」を持つ人が「モテ」るわけです。

一方女性の「モテ」に関しては男性とは異なることを書かれています。
それが若い女性の「エロス資本」と述べられている部分です。
若い女性は大きな「エロス資本(エロティック・キャピタル)」を持っており、それを資本市場でマネタイズ(換金)している。
~中略~

10代後半から10年間で最大になって、それから徐々に減っていき、35歳を超えるとほぼ消失します。
これを文章にして書いてしまうのがすごいですね。
この希少なエロス資本を持つ女性は恋愛における幸福度で男性を上回っている理由と説いています。
つまりは「富裕」でなくとも「若さ」=「エロス資本」を最大限に利用することができる女性は男性ほどではないと説いています。
う~ん、個人的にはそこも男女に差はないと思うんですけどね。
「ジャニーズ」などアイドルに対する散財ぶりを見れば、女性アイドルにお布施をしている男性陣と変わらないと思うんですけどね。
何が違うんでしょうね。
確かにエロス資本を換金できる可能性は圧倒的に女性が高いと思いますが、「モテ/非モテ」という点で見るとそう変わらない気がしてなりません。

さて、「モテ非モテ」だけでなく、「格差社会」というものは避けようがなく、著者はこれらの現象は世界的に同時進行していると言います。

いつもながらに橘玲さんの本を読んでいると「なるほど」と感心することは多数あるのですが、どんよりとした気持ちにもなってしまいますね。

 

 

覚慶の長く暑い夏 中南元伸

画像はAmazonより

kindle unlimitedにあったこの本。
ダウンロードしたのは良いけれど、そのまま放置になっていました。
スキマ時間を利用して読みました。

 

覚慶という文字を見てすぐに足利義昭を思いついた人はかなりの歴史ファンでしょう。
学校の教科書で習うときは足利義昭で、出家していたけれど還俗して将軍となった人物ですね。
著者の中南元伸さんは、先日読んだ「筒井順慶の悩める六月」以来です。
時代はかなり違いますが、歴史の表舞台に名前は登場するものの主役になりきれなかった人物という点では同じです。
ただ、筒井順慶と違って覚慶は室町幕府の将軍にまでなる方。
さてどんなものかと楽しみながら読み始めました。

 

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歴史小説ですから、ストーリーは史実通りなのですが、足利義昭を主人公にした小説だけあって、どのような流れで将軍になったのかがポイントです。
始まりは第13代将軍である足利義輝三好三人衆たちに討たれてしまったところからになります。
それまでは一乗院で僧侶として過ごしており、その名前が覚慶。

この物語で登場するのは

覚慶、のちの足利義昭(義秋)は主人公なのでもちろん登場シーンが多い。

松永霜台(松永弾正少弼久秀)は脇役ですが、役どころ多し。

松永久通 松永久秀の息子でまだ若く、あまり細かいことはわかっていません。

三好三人衆三好長逸岩成友通三好宗渭)三人衆とまとめられているように十把一絡げの扱いであまり目立ったところはありませんが、長慶時代から引き続き松永久秀に三好党が牛耳られているため面白くありません。

三好義継 ザ・神輿の上の人、若輩で本人も思慮不足。
長慶の跡を継いだことと、三人衆に乗せられて将軍になれると思っている愚かな男。

慶寿院 義輝および義昭(覚慶)の生母で、へそ曲がりで政治に口を挟む悪女役。

御所巻という将軍に対する直訴(強訴)は基盤の脆弱な室町幕府では過去にも何度もあったことですが、今回の御所巻では、足利義輝が志望します。
言ってみれば、これらのスケールの小さい武将たちが権力を争ったがために起きた事故なのです。

更にこの後の物語の展開は、次の将軍をするために覚慶を還俗させて将軍職にするということです。
ところがこの覚慶は「麿は将軍なんかになりとうない」と言い続ける人物。
そこにはこの人物のちょっと拗ねたところや、一乗院門跡という僧侶としては高位ながらもある意味気楽に堕落した生活を楽しんでいるところがあります。
彼の世話をする珍念という小僧から見ても、30歳にもなろうかという立派な大人の覚慶が子供っぽく写っていることからもわかります。
覚慶は、文泉という未亡人で尼僧を愛人としている生臭い僧侶ですが、足利将軍家嫡流ということで特別扱いを受けているわけです。
こんな放蕩癖のある人物でも血筋というものが物を言う時代。
覚慶は早速松永久秀の管理下に置かれるのです。
松永が面白くない三好三人衆によって新たな将軍を担ぎあげられたのが第14代将軍足利義栄です。
そして彼らは担いだ神輿にとって邪魔な覚慶を亡き者にしようと松永久秀に命令をするのですが、野心家の彼はのらりくらりと情勢を見ながら対応します。
そんな双方との覚慶を巡る争いに加わったのが、明智十兵衛光秀と筒井家の侍大将の島左近清興と島左近の舅の北庵という医者です。
ここからは北庵という人物が大活躍するのですが、彼の言葉は「アレ、ソレ」ばかりのわかりにくい日本語で、その言い回しが皆に伝染します。
まるで阪神の岡田監督みたいですよね。
この北庵が物語を面白くかき回してくれます。
結局のところ、彼らの覚慶救出作戦が成功するまでの話で、「嫌や~、将軍なんぞなりとうない」と駄々をこねていた覚慶も最後は腹を決めて将軍になり、麿という一人称も辞めてしまうという話です。

いや、まあ、面白いです。
関西人には。
関西風の言葉でコテコテですけれど、三好三人衆松永久秀たちとの三つ巴の中でのやり取りですね。

 

 

 

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