悪魔の尻尾

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体罰という指導方法

大阪の桜宮高校のバスケット部の部員の自殺で一気に明るみに出た体罰
体罰については今も昔も賛否両論である。私の世代では普通にあったということだが、問題はその程度であり、その体罰の質にもよる。指導に熱が入るあまりに怒鳴る、げんこつでポカリとやるというのは普通にあると思う。決してほめられたことではないが、指導する側も人間である。
ただ、体罰でスポーツの技術が上がるとか、精神が鍛えられるとかいうことはない。体罰と指導には何ら関連がないからだ。体罰をするエネルギーがあるなら、具体的なアドバイスを送るほうがよほどいい。ビンタをしてパスのセンスが上がることはない。ケツバットを食らってバントがうまくなるわけではない。うさぎ跳びをやらせて球が速くなるわけでもない。そんなことは誰もがわかっているはずだ。それすらわからない人はもう一度小学校からやり直すべきだろう。精神を鍛えるということにおいても体罰はあまり意味が無いと思う。精神力という言葉も非常に曖昧で抽象的なところがある。どれだけ真剣になれるか、集中力を養うということだと思う。
そこをうまく指導できずに、恐怖心でいうことを聞かせようというのが体罰である。旧日本軍の名残かもしれない。不合理なことでも上官というだけで暴力が許された旧日本帝国軍や官憲等と同じ構図だと思う。
体罰を容認する人の理屈は違う。怒られる、殴られることは辛い。だから痛みを知り、殴られないように工夫する。そこに価値があるということだ。努力する。だから体罰は良い指導法だ。という理屈である。
なるほど理屈は通っているように見えるがとんでもない。工夫するのが本人であればコーチや指導者なんて要らない。結果至上主義にして放置するのと同じである。本来指導者は選手の技量を見極め、有効なアドバイスをするためにいるはずである。

元巨人の投手、桑田真澄氏はその点をきちんと述べており、まさに正論だと思う。彼ほど少年期から野球のエリートコースを進み、学生野球の花である甲子園で5期も出場し2回も優勝するということを成し遂げた人間でさえ、このように考えている。彼の選手としての実績は誇るべきものであり、それまでの指導方法は間違っていないとされてもおかしくないにもかかわらず、彼は自身が受けた指導方法、指導者に対してかなり手厳しいことを述べている。
一方、名前だけが先行して選手としての実績が全くないスポーツコメンテーターである長嶋一茂氏は体罰容認論である。自身も厳しい体罰を受けたが、そこには愛情が感じられたとか。滑稽というかなんというか、口を開いてものを言えば言うほど滑稽である。

またハードトレーニングで選手を潰してしまうようなコーチももはや指導者ではない。記憶にあたらしい所では北京オリンピックの時の野口みずきである。期待されてハードなトレーニングを積んだ挙句壊してしまったのである。指導者失格である。

ともあれ、練習が厳しいことは当然である。それと体罰が厳しいことは別。そして優れた指導者とはひとりひとりの才能を見極め、最も適切なアドバイスを与えると同時に適切な目標を上げ、適切な練習量を決めてそれをしっかりと行えるように管理することである。そういったマネジメントをしっかりと出来る指導者が一体どれくらいいるのだろうか。


桑田真澄 「”体罰”は指導者の勉強不足による一番安易な指導方法で、チームや選手は決して強くならない」 | ニュース2ちゃんねる

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