野球が好きだ。
プロ野球も高校野球も、野球をするのも好きだった。
子供の頃から野球が好きで、甲子園に憧れるのは誰にもあること。
しかし大人になるにつれ、高校野球というものに対する興味はなくなり、最近はバカバカしさもあって、あまり見なくなった。
今年も知らない間に始まっていた。
毎年高校野球に怪物だの怪童だの登場してマスコミに祭り上げられ、そして一部の高校球児が勘違いして人生の道を間違える。
まあ、よい。それだけ野球界には魅力があり、夢のために冒険するこも意味がある。
プロに憧れ、スターに憧れるのは誰もが思うところだと思う。
しかし必要以上に高校野球を神聖化し、学生の純粋な気持ちを表す場として特別視するのはもはや時代にそぐわない。
そういう時代にあって、何を思ったか、負けた学校の生徒がアルプススタンドに向かって土下座するということがあった。
公立高校。特別な選手もいるわけでもなく、特別な高校でもない。
負けるべくして負けたと思う。負け方はひどかったが、野球という勝負事には勝敗は当然あるし、点差もつくこともあるだろう。
しかし一生懸命プレイした生徒たちに不甲斐ない負け方をしたからと土下座を強要する指導者にものを申したい。
いや、指導者はそんなことを強要していない。生徒たちが自発的にしたということだったとしても学校の関係者はそういうことを止めるべきである。
高校生が高校生を相手に一生懸命戦った。その結果負けただけのこと。その事自体に恥じる必要はない。
胸を張って堂々と退場すれば良い。
暑い中一生懸命応援してくれた学校の関係者に頭を下げるのなら、帽子をとって、心をこめてお辞儀をすrばいい。土下座はあるまい。
こういう学校の指導者はいまだに精神論中心の指導法である。
確かにスポーツの技術の上達とともに人間としての成長は必要だろう。
野球がうまくなる以上に人間的な成長は重要で、そのことに力を注ぐのは悪くない。
しかし、それと土下座は違う。土下座なんて礼儀でも何でもない。見ていて見苦しい。
たまたま、指導者は自分の信念を押し付けつつも生徒たちが優秀で甲子園に出れただけのことである。
野球の指導が素晴らしかったわけではない。
野球はスポーツ。野球道なんてものはない。何よりも精神論で野球がうまくなるわけではない。
野球がうまくなるだけではダメで精神的にも人間的に成長しないといけないと解くことは悪くない。
勝つことよりも野球道を極めることを説く指導法が気持ち悪すぎる。
野球が若い人たちに人気がなくなるのがわかるような気がする。