Amazon Kindleで読みました。
それなりの長さがある本なのですが、長い文章ではなく、適度な長さの文章がリズムよく並んでいる気がして、大変読みやすかったです。
昨年映画化されており、松山ケンイチさんと長澤まさみさんがキャスティングされています。
この本の目次
序章 2011年12月
第一章 天国と地獄 2006年11月
第二章 軋む音 2007年4月
第三章 ロスト 2007年6月
第四章 ロングパス 2007年7月
第五章 黄金律 2007年8月
終章 2011年12月
登場人物
<彼>
43人もの老人たちを殺した人物。
羽田洋子
認知症の母静江を介護するシングルマザー。
幼い一人娘を抱え、仕事、家事、介護を一人で担うため、生活は限界に達しています。
母を殺した<彼>に救われたという気持ちがあり、怒りや憎しみは湧いてこないようです。
斯波宗典
八賀市のケアセンターに勤務する介護士。
自身も父の介護で非常に苦労した経験を持ち、その経験が今の仕事に生きています。
勤務態度、能力、人柄などすべての項目において優秀な介護士です。
猪口真理子
40代の主婦でパートタイムで働く介護ヘルパーです。
ヘルパーはあくまで仕事、お金を得るためと割り切っており、本音を包み隠さないため、言葉は悪いです。
窪田由紀
介護の仕事を初めて間もない若い介護士。
老人の介護に夢を持つ若い女性で、斯波を密かに尊敬しています。
逆に猪口に対してはどうも嫌悪感を抱いている模様。
団啓司
斯波たちが勤める介護施設のセンター長。
58歳の管理職ながら現場にもヘルパーとして参加しています。
離婚しており、一人暮らしですが、社員である斯波やパートタイムのヘルパー三たちへの理解もある上司です。
佐久間功一郎
大友秀樹と高校時代同じバスケットボール部に所属していた人物。
1年のときからレギュラーで、エース。
勝負に拘るタイプで、転職した人材派遣会社でも営業マンとしても手腕を発揮。
人材派遣会社から出向し、若くして介護事業のフォレストの部長として働いており、大友の父に高級老人ホーム「フォレスト・ガーデン」を紹介します。
大友秀樹
千葉地検松戸支部に勤める検事。
妻と幼い子供を持つ真面目な人物。
父とともにクリスチャンだが、それほど敬虔というわけではありません。
父は貿易商として成功し、20歳も年下の母と結婚したものの、母はがんで亡くなりました。
ある程度の財産を持っているものの、高齢となり、老人ホーム「フォレスト・ガーデン」に入居することになります。
椎名
大友秀樹の下で働く検察事務官で、本来は数学が専門の学者タイプの人間です。
あらすじ
<彼>は戦後前例のない大量の連続殺人犯として起訴され、それを認めます。
42人という人数であり、事実が確定するまでにも4年の歳月を要しました。
<彼>には罪悪感がなく、むしろ自分の行った行為を「救い」と称しているのです。
この事件の担当検事である大友秀樹は、人の善性を信じ、それを信じているがゆえに<彼>に悔いてほしいのです。
しかし<彼>は悔いることなく、罪悪感はありません。
ことが発覚すれば死刑になるということも理解しています。
介護が必要な人たちは世の中に溢れています。
そして介護を担うのは家族ですが、介護する方もされる方もきれいごとではなく、地獄です。
そんな地獄となっている当事者に羽田洋子がいました。
彼女は若気の至りである男性と結婚したものの暴力に耐えかねて離婚。
実家に戻ってきたものの、しばらくして母が怪我をし、それをきっかけに出歩くこともなくなり認知症へ。
近年はますます認知症が進み、娘である洋子もかわいがってくれていた孫の颯太もわからないようになりました。
仕事に加えて、育児、家事、介護といくつものことをこなす彼女は肉体的にも精神的にも悲鳴を上げており、可愛い我が子にまで手を上げてしまう現実に希望は見えてきません。
そんな母が仕事に行っている間にぽっくりと亡くなりました。
彼女は救われたと感じたのです。
検事として働いている大友秀樹には年老いた父がいました。
しかし転勤が多い彼は父の面倒を見ることができません。
幸い父は貿易商として成功した人物であり、資産はありました。
高校時代のバスケットボール部の仲間である佐久間功一郎が現在フォレストグループという介護ベンチャー企業の部長として働いていることを知り、相談します。
佐久間は、お金があるなら有料老人ホームが一番であると言い、その中でもVIPたちが暮らす豪華な老人ホーム「フォレスト・ガーデン」を薦めます。
父も気に入ったようでその老人ホームに入ることになります。
介護保険制度は開始当初とは様変わりしました。
介護保険に群がる企業は営利企業ですが、介護を望む人たちはみんなお金に余裕のある人ばかりではありません。
介護企業が利益を上げるようになると役人たちは信じられないような制度改正を行い、企業に支払われる介護報酬が大幅に引き下げられます。
しかし、企業として介護業界に進出したところは、合わないからすぐに辞めるというわけにも行かず、やがて不正に手を染めるところも出てくるのです。
感想
小説ですが、フィクションとは思えないような内容です。
そして高齢化社会の日本において介護の問題は現実的な問題です。
今、そういう現実にない人であっても、いつ介護が現実的な問題として突きつけられるのかなんてわかりません。
この物語では一番最初に聖書の一文が記載されています。
序章よりも前にある
だから、
人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。
ーマタイによる福音書 第7章12節
という文章です。
序章を読めば、<彼>が大量殺人の犯人であることがわかります。
<彼>の次に出てくるのが羽田洋子で「被害者」の娘ですが、彼女の心の中が描かれています。
生々しい本音がそこにあるのですが、検察のいう正義のために彼女の漏らした本音は調書に書かれることはありませんでしたね。
この序章を読めば、登場人物がある程度出てきます。
第一章は時間が遡ります。
つまりは時系列に描かれているのではなく、犯行は確定している内容を当時に振り返って描かれる小説となっています。
ちなみにこの小説において<彼>が誰なのかということは最後の方まで明かされず、その部分がミステリーとなっていますが、カンの良い読者なら気づくでしょうね。
ただ、犯人探しを楽しむ推理小説とは違って、この小説は介護の現場や介護業界の現実を描いている作品です。
介護する人、される人。
そして介護を支える家族とヘルパーさんたち。
介護保険制度を作った役人たちとそこに群がる企業家たち。
読んでいて辛くなる部分がたくさんありますが、目を背けてはいけない気もします。
誰もが老いていきます。
人生100年時代と言われますが、それは言い方を変えれば、100年の地獄の入口でもあるわけです。
そういう、なかなか刺激的な文章がちりばめられています。
いつものようにいくつか刺激的な文書を残しておきたいと思います。
洋子はこれまで日本が長寿国であることを漠然と良いことのように感じていたが、それは大いなる誤解だと気づいた。
人が死なないなんて、こんなに絶望的なことはない!
そんなふうに考えてしまう自分が心底嫌になった。
(羽田洋子の心の中)
何の気なしに使う「介護ビジネス」という言葉の座りの悪さに気づいた。「介護」と「ビジネス」。相容れようのないものを掛け合わせてしまったキメラのようなグロテクスさ。
(大友秀樹の回想)
後出しジャンケンではないのですが、私も感じていた違和感をよくもまあ的確に文字にしてくれた気がします。
ただ、綺麗事でことは進まないということも事実で、介護にはコストが必要ということもわかります。
だが、斯波はこの由紀の真面目さに、むしろ危ういものを感じていた。
真面目な人間ほど、つまずいて辞めてしまう。介護の仕事には、そういった側面が間違いなくあるのだから。
(若い新人のヘルパーに感じた斯波の気持ち)
給料は安く、拘束時間は長く、労働はきつい。
「働く側の環境は昔のほうがずっとまし」だったそうだ。介護保険制度が施行され市場原理が導入されたことにより、仕事量は増えて給料は減ったのだという。
介護の世界に身を置けば、誰でも実感する。この世には死が救いになるということは間違いなくある。
しかし、やがて役人たちはその本性を現す。否、もともと仕組まれていたとでも言うべきかもしれない。
介護企業が大きな利益を上げるようになると、信じられないような制度改正が行われた。企業に支払われる介護報酬が引き下げられたのだ。
自分たちで賭場を開いておきながら、プレイヤーが勝ち始めると、ルールを変えてチップを支払わない。企業の側から見れば、役人たちの振る舞いはそんなヤクザな胴元に近い。
ルールを後で変更する役人たち、政治家たちにはやりきれない気持ちがあります。
厚生年金受給額や開始年齢の改変は誰もが感じていると思います。
さらにはグリーンピア、サンピアなどの失敗に対して誰も責任を取りません。
天下り先の特殊法人の設立のために湯水のように使われる税金や年金基金を思うと怒りを通り越した気持ちになりますね。
裕福な家庭で多くの人の善意に囲まれて育った大友は、幼いころからごく当たり前のこととして性善説を信じていた。この世には根っからの悪人などいない。テレビのニュースに登場する犯罪者たちは皆、何かの間違いでそうなってしまったに違いない。
人間の魂とでも言うべき根本の部分には前提としての善性が備わっていると信じられた。
その根拠は罪悪感だ。
(大友の回想)
大手メーカーは意外と天井が低いことを知った。どう考えても自分より無能な上司が上に何人も詰まっており、ずっと高い給料をもらっていた。厳しい競争をしているのは若者ばかりで、古参の社員たちはぬるま湯につかっていた。
(大手電機メーカーに新卒で就職していた佐久間の回想)
佐久間は学生の頃から抱いていた「正しさが気にくわない」という感情の正体が分かった。偽善だからだ。堂々と「正しいこと」を主張するやつは、ただ既存の価値にしがみついているだけの偽善者なのだ。
「生活が刑務所の環境を下回ってしまえば、犯罪を犯す動機づけになってしまいます。」
(刑務所をでたばかりで再犯を繰り返して刑務所に入りたがる川内タエに対する椎名の言葉)
一時は時代の寵児のように持ち上げられた男が、袋叩きにされていた。
(フォレストの不祥事で責任を問われた企業のトップに対して)
たしかにフォレストは不正をしていたし、会長は清廉潔白とは言い難い人物に思える。だが、少しでも調べれば、介護業界全体の構造にも問題があることは分かるはずだ。
それを無視して一企業と個人を吊し上げ、その様子を電波に乗せて全国に流すのか。
狂っている。
(斯波の回想)
このあたりのマスコミの掌返しには呆れます。
そして自分たちは正しいと信じて疑わない。
重要なのは、勝つこと、成功すること、そこから得られる万能感だ。
老人に限らず、正の感情より負の感情の邦画人を動かす。中でも、不安と恥は特に強く作用する。人を動かすにはいかにして不安と恥を刺激するかが肝だ。
人材派遣や介護の業界も、振り込め詐欺も、えげつなさは似たりよったりだ。
(佐久間の回想)
落ちぶれていく人間のパターンとして佐久間という人物が描かれていますが、大友とは正反対の人物。
経験則と呼ばれるものには、思い込みや印象によるバイアスがかかっている場合が結構あるんです。
(椎名の言葉)
数字、統計からいろいろなものが見えてくる。
数字の裏付けのない経験則ばかりを持ち出す人には要注意ですよね。
ただ、マーケティングで用いられる数字というのも「まやかし」の類のものが結構あるので、信じすぎないことも必要ですね。
殺人事件を担当するのは、どこの県警でもエース級の敏腕刑事だ。そして彼らが敏腕たる腕前を最も発揮するのは取り調べである。密室で行われるそれの厳しさは想像を絶する。しかも最長二十日のはずの勾留期間は、容疑を変えた再逮捕で何度でも延長される。常人が秘密を隠し通せるものではない。
これもひどい話ですよね。
日本が人質司法の実体と思うと警察や検察といったいわゆる当局に目をつけられたら終わりということですね。
「そうです。殺すことで彼らと彼らの家族を救いました。僕がやっていたことは介護です。喪失の介護、『ロスト・ケア』です」
(<彼>を問い詰める大友に放った<彼>の言葉)
何よりも気がかりなのは、すでに過去になった母のことではなく、未来の息子のことだ。
いつか私も呪いで息子を縛るのだろうか。
(羽田洋子の回想)
福祉事務所の窓口で『働けるんですよね?大変かもしれませんが頑張って』と励まされただけでした。だけど僕にはこれ以上、何をどう頑張ればいいのか分かりませんでした。
このとき、僕は思い知ったんです。この社会には穴が空いている、って。
基礎的なインフラが整い、一見豊かなこの国では、その穴の存在に気づきにくいんです。
「検事さん、あなたがそう言えるのは、絶対に穴に落ちない安全地帯にいると思っているからですよ。あの穴の底での絶望は、落ちてみないと分からない」
何とも言えないセリフが並んでいますが、終盤の<彼>と大友とのやり取りが見せ場の一つになっています。
現在の老人大国日本。
私の世代も数が多く、老人になっていくわけですが、自分自身が誰かわからない状態で生きることはとても恐ろしいです。
安楽死、尊厳死というものも考えさせられるテーマですね。