悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

超ネット社会の成功術 苫米地英人

残業で帰宅が遅くなりました。
帰宅して、オフロに入って晩ごはんを食べたらこんな時間に。
本当はこんな時間に食事は良くないのですけど、耐えられませんでした。

さて、通勤中にKindle Paperwhiteで読書をすることが多いのですが、こちらも先日読み終えたものです。

最近少し続けて苫米地さんの本を読んでいます。
怪しさがあって、胡散臭いと思う方も多いと思います。
(私もそういうふうに思っていた一人です。)

このテーマはこれで、読み応えがありました。
超ネット社会はなんぞや?というところから定義が始まります。
そして人間は情報によって出来ている

 

 

 

目次

プロローグ

第1章 「超ネット社会」のほんとうの意味-テクノロジーと脳機能

第2章 「超ネット社会」を制するもの-心の技術と洗脳のリスク

第3章 「超ネット社会」をどう生きるか-脱洗脳と自由

第4章 「超ネット社会」を超える行き方-情報空間で圧倒的に成功するために

おわりに-釈迦を超える生き方を目指して

 

内容

人間の脳はすごいんです。
テクノロジーはただの「技術」であり「道具」に過ぎません。
人間の脳は1万年~5000年くらい前にほぼ進化を終えており、テクノロジーはその脳の進化を追いかけているだけなのです。
脳という完璧に近い情報処理システムがあり、テクノロジーがやっと追いついてきたと考えるべきなのです。

人間の脳は「情報空間」に対しても臨場感を持つことができます。
文字を発明し、それによって時間と空間を超えた抽象思考ができるようになりました。

今最新と思えるテクノロジーも実はそんなに新しくはありません。
パソコンのOSやSNSクラウドなども最先端のテクノロジーではなく、60~80年代のコンピューター・サイエンティストが開発した「古いテクノロジー」です。
アメリカの軍、産業界が国防的、ビジネス的においしいと目をつけ、お金がいついたから広まっただけで、「最新のテクノロジー」を追ってみても意味はないのです。

人間とは、進化の過程で手に入れた先天的な情報と、生後身につけた後天的な情報が集積した、きわめて「情報的な存在」なのです。

ソフトウェアは、人間の脳と心を模倣して作られています。人間の脳のほうが、完全に近い情報処理システムです。
人間とは極めて「情報的な存在」なのです。
そんな「情報的な存在」である人間は、洗脳に弱いのです。コンピューターネット上に「情報ウイルス」が流されると、そこに強い臨場感を持っている自我や人格は、簡単に情報を書き換えられてしまうのです。

感想

この本と並行して「現代洗脳のカラクリ」という本も読んだのですが、その本とカブる部分が多かった印象です。
他の本もそうなのですが、苫米地氏は恐ろしいほどのペースで本を出しています。
ゴーストライター?という噂もありますが、とりあえず頭の言い方ですから、そうではないと思いたいです。
そしてどれも結構読み応えがあります。
超ネット社会の根幹はインターネットであり、それはハイテクで最先端のようでそうでもナイトのことです。
ちょっと驚きましたが、考えてみれば、パソコンの原型がかんせいされてからすでにかなりの年数になります。
商業ベースで安いプロセッサやメモリ、ストレージというものが量産効果によって広まっていきました。
そう考えると納得できる部分もあります。

本文から引用すると、
アメリカの国防政策やビジネス的観点によって、数あるテクノロジーの中から「国防的に利用価値が高い」もしくは「ビジネス的に成功の可能性がある」テクノロジーが選ばれているだけです。

ビジネスのツールとして使うのは自由ですが、テクノロジーは遊びであり、社会を変える力はないということをしっかり理解しておくべきです。そうしなければ、テクノロジーに振り回され、盲信的なテクノロジー信仰に陥ってしまいます。

 

 

確かにネット関連、新しいWebサービスとか言われると、流行の最先端、ハイテク!と思いがちですが、テクノロジーの観点から言うとそれほど尖っていないものなんですね。

臨場感という言葉も度々出てきます。
リアリティって何か?
脳にとっては電気信号に過ぎず、それが本当にそこにあるかどうかは人間の脳が判断しているだけというくだりもありました。

マトリックスの映画のシーンを思い出しましたね。
まさに目の前にある物理空間も人間の脳が判断していることと考えると、リアリティとはなんぞやと考えてしまいます。
目で見てそこにあることがわかっているから「現実」で、触って手触りや重さを感じるから「現実」。
総判断しているのは脳であり、脳内の電気信号と考えれば、全く同じ電気信号を与えてやれば、現実と何ら変わらないことになります。
その技術の代表的なことがバーチャルリアリティでしょう。
まだまだ現実と思わせるには足りないですが、臨場感は増しています。
イラストなどの絵よりも写真がリアルですし、写真よりも動画のほうがよりリアルに感じます。
VR動画となると脳はまさにそこにあるような錯覚を起こします。

臨場感は何も現実にそのように感じさせるというのがテクノロジーだけではありません。
人間は素晴らしい文章に触れたときに涙を流し、美しい映画を見て感動します。
それが「現実」ではないと知りながらも、そこには「臨場感」があり、現実ではなくても人間は大きな影響を受けます。

現実ではなくても人間は情動的な存在なのですね。
だからこそ、情動的な状態になっているときに、特定の情報を与えることによって、人に影響を与えることが可能になっている=洗脳状態、を作り出すことができるのですね。

デジタルテクノロジーに支配されないための提案もありました。
テクノロジーによってニーズが生み出され、そのニーズを満たすためだけに使っている人が多いと言うのは全く同意です。

こうやって書いている個人ブログも苫米地さんにしてみれば、無意味な作業にすぎないのかも知れません。


「情動を排して、自分のゴールを決める」
そのゴールのためにはテクノロジーを利用すれば良いといいます。
喜怒哀楽の感情=情動は洗脳の道具に使われてしまうので、それらを排除しなければならないということですが、なかなかそんなことはできそうにもありません。
ただ、そういう情動を使って洗脳しようとする、人を操るというしくみを知ることは大切なことだと感じましたね。
そしてそのゴールというのも、しかけられたwant toではなく真のwant toでなければ意味がないということも理解しました。
ただ、真のwant toというのは煩悩の塊でもある普通の人間、私にはとてもたどり着けないところなのかもしれないとも感じています。

 

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