悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

信玄軍旗 松本清張

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先程ソフトボールの決勝戦が終わりましたね。
アメリカとの頂上決戦を制しての金メダル。
堂々たるものですよね。


さて、ずっと積読になっていたKindle本、松本清張さんの「信玄軍旗」を読みました。
武田信玄という戦国時代を代表する武将の話です。

 



戦国武将で人気のあるのは織田信長豊臣秀吉徳川家康は言うに及ばずですが、それについで人気があるのが武田信玄上杉謙信と言った戦国最強の武将たちですね。

日本人の性質から上杉謙信が過大評価され過ぎなのかな?というのが個人的な意見ですが、武田信玄も誇張されたところはあるかと思います。

30年以上前に新田次郎さんの「武田信玄」「武田勝頼」を読みました。
これらはかなり長い作品でしたが、この本はそれほど長くはないので、スラスラっと読めると思います。
予め知っていることが多かったのですが、作者が変わるとやはり描き方も変わってきます。



武田信玄甲州騎馬軍団を率いて戦国最強とも言われています。
そして同時期の隣国のライバル、軍神上杉謙信との戦い、川中島の戦いは江戸時代に講談などになって誇張された部分があるにせよ、激しい戦であったのでしょう。

越後の龍」と「甲斐の虎」が真っ向から戦う様は、物語のテーマとしては非常に盛り上がります。
実際には、この本に描かれているように、両者はすでに戦の駆け引きというものを心得た名将です。
双方ともに徹底的な消耗戦をやったとは考えづらく、序盤に押し込んだのが謙信で、兵数にまさるため、ニ隊に分けて、一隊を迂回して越後兵の背後に襲いかかったのが信玄。
挟撃を受けると総崩れになるため、越後側の撤収となった戦いです。
一方的な戦いとならず、お互いの読み合い、辛抱のしどころなどの駆け引きこそが、この名勝負の特徴だと思います。

どちらも勝ち名乗りを上げ、勝敗はついていないのですが、撤収したので上杉の敗北と見るのが武田で正当性があります。
しかし武田勢と比べて寡兵出会ったにもかかわらず、信玄本体に鋭くぶつかって、あわやと思わせた点などは上杉強しのイメージもあります。

単騎で武田勢に突っ込んできた上杉謙信が太刀を信玄に浴びせ、それを軍扇で受け止めるということは、講談で作られた演出で、現実にはあり得なかったでしょう。
甲陽軍鑑という本から作られた話が多いようですが、そもそも歴史の研究者の中で多くの人が甲陽軍鑑という本自体を歴史の文献としては信憑性が低いとしています。
そんな中、幻の軍師と呼ばれる、山本勘助も登場します。



戦という点では、強さが際立っている武田軍ですが、若い頃は敗戦も経験しています。
信濃の領有をめぐっての村上義清小笠原長時との戸石城での戦いでは明らかに敗戦で、世にいう「砥石崩れ」と言われるものです。
のちの真田親子が関ヶ原の戦いで徳川本体の秀忠を足止めした上田城の戦いの見本になったのでしょうか。

戦だけでなく、信玄の真骨頂は政治家としての内政面や外交手腕にもあります。
甲斐国という平地面積も少なく、経済的には全く恵まれていなかった土地の領主である武田家。
もともと守護代であった武田家ですが、父の信虎の頃から、時代の流れに合わせるかのように名前だけでなく実力で領地を治める戦国大名へと変貌していきます。
戦国大名の実力は石高で決まりますが、信玄(当時は晴信)は父を追放して家督を継いだ当時は信濃を持たず、甲斐国のみでした。養える兵の数も少なく、天下に覇をとなえるなど夢のまた夢だったのではないでしょうか。
しかしながら、南側、東側の強国、駿河の今川と関東の北条と同盟を組むことによって、全力を信濃へ向けることができ、信濃を抑えることによって国力があがりました。
他の国もいろいろな同盟を組んでいると思いますが、この甲駿相三国同盟は有効に機能しました。

黒川金山の開発なども信玄の時代に大きく伸びましたし、水害対策として名高い信玄堤などは今も残るものですね。


四方を敵に囲まれた土地は生き残るだけでも大変ですが、内政、外交、そして侵略という方法を使い分け、大国へと変貌させていきます。
やはり稀代の名将でもあり、領主としても優れた手腕を発揮した信玄。
しかしながら、父を追放し、嫡男を死に追いやったという悪い評判もあります。
いずれも丸く収めるというのはうまくいかず、うまくいっても小粒になりやすく、どこか異常な部分がないと戦国時代で大成することはないのでしょう。
織田信長は言うに及ばず、秀吉、家康も相当に風変わりな一面を持っていたはずです。
彼らの下で使える武将たちというのは常に緊迫した心持ちであっただろうし、本当に気の休まるところはなかったでしょう。

さて信玄も信濃を完全に掌握し、兵力も上がってきたことで天下への気持ちが高まってきたのでしょう。
奇策をもって一気に領土を増やしたわけではなく、徐々に獲得してきた地盤です。
ようやう上洛の意思を固めたときは晩年です。
そして当時若い家康との対決「三方ヶ原の戦い」があります。
家康にしてみれば、城にこもって武田信玄をやり過ごすという手もあったわけですが、自分の領地を我が物顔で通り過ぎることに我慢がならなかったのでしょう。
強大な武田軍に勝負を挑みました。
結果は生きていてよかったと言えるほどの負けっぷりでした。
後に天下人となる家康は野戦が非常に得意な武将です。
(逆に城攻めは下手くそですよね)
そんな家康が子供扱い以下にあしらわれてしまったのが三方原の戦いの敗戦で、多くのことを学んだと言われています。
後の天下分け目の戦いである関が原の戦いにも活かされたという人もいます。
戦いの規模も時代も違いますが、「野戦とはこうやるものだ」と達人信玄に直接教わったと言えそうです。
戦国時代では負け戦で命を落とすことになる場合が多いですが、やはり敗戦、失敗から学ぶことはとても多いのだと思います。

こんなに鮮やかな勝ち戦のあと、武田軍団の進軍が止まります。
信玄の寿命は尽き、甲斐国へ引き上げることになるのです。
本当に織田信長は強運の持ち主です。
そして畿内で最強の武田軍団を頼りにしていた反信長勢力の命運が尽きたときでした。

この本のラストシーンが不気味で、一番良かったですね。
信玄は遺言に孫の信勝に家督を譲るとし、勝頼にはみだりに戦をしないよう諌めます。
若く自身にみなぎっている勝頼にとっては、信玄の残した優秀な家臣団は同時にうるさい「小舅ども」であったのでしょう。


戦国三傑の時代は戦国時代を終わらせた時代ということですが、武田信玄の時代はまさに群雄割拠する戦国時代で、とても華やかです。
戦の規模は小さくても、圧倒的な力を持つ武将もいなかったため、同盟裏切りも多く、戦も国境での小競り合いを含めれば、日常茶飯事だったでしょう。
華やかな戦国時代といえ、実際に生き抜いた人々は本当に大変な時代でしょうが、歴史として、読み物として楽しむ後世の人間から見れば、変化に飛んだ、予測不能な時代でしたね。

 

ちなみに中高生の頃に勉強した日本史ではあまり興味が持てなかったのですが、こういった戦国時代の武将の本を読んだきっかけはゲームだったりします。
光栄(現在はコーエイテクモ)の歴史シリーズ、シブサワ・コウ信長の野望でした。
私は初代作品の信長の野望はほとんどプレイしたことがないのですが、戦国群雄伝というのはPC9801で結構遊んだ記憶があります。

 

またやってみたくなりますよね。

 

 

 

 

 

 

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