最近文字を手で書く機会がとても少なくなりました。
ブログを毎日のように書いていても、もちろん手書きではありません。
趣味と呼べるほどのものではありませんが、万年筆が好きなんです。
いくつか所有しています。
手書きの日記というものを書いていた時期がありました。
万年筆で文字を書きたいがために、という本来の日記の目的とは違う理由もあったのです。
文字は書けばうまくなるというのはウソ
文字はやはりたくさん書かないと、うまくならないというのは嘘だと思っています。
自分が「うまくなるほど書いていないじゃないか」、この言い訳ではありません。
文字をうまく書くための、練習はしていないという意味では、そのとおりです。
ただ、文字をたくさん書いているだけではうまくならないことは実感しているのです。
うまくなるためには丁寧に、文字の形を意識しながら書くという「練習」をしなければならないと思います。
根がズボラな私は、あまり練習がしたくないので、読むだけで文字がうまくなるという本を読んでみましたが、読んだだけではやはりうまくはなりません。
なぜ丁寧にかけないのか?
日記などを付ける場合、言葉を文字に変換する作業に追われて、とても早く書くクセがついてしまっています。
タイピングの速度と同じような感覚になってしまっているので、手書きで書く速度に自分自身がイライラしてしまっているのですね。
そして、文字の形どころではなくなり、書いてみたものの、その文字に汚なさに「自己嫌悪の陥る」という悪循環でした。
なによりも手書きでは1000文字も書けば、とても手が疲れます。
書き直しなんて、やりたくはないですし、万年筆で書いた文字の訂正なんて、二重線でけして、書き直すという作業になります。
文章のブロックなんかを移動させるなんて作業は、手書きにはできません。
そんなわけで、手書きの日記は1~2年くらいでやめてしまったのですが、やっぱり万年筆を触っていると、書きたくなるんですね。
これはビョーキなのでしょうかね。
丁寧にゆっくり形に気をつけて書けば、それなりに人様に見ていただける最低限のレベルの文字になっている(と本人は思っている)文字になります。
私以外の人でもだいたい読めるでしょう。
丁寧に書くということと、文章を書くということは全く別の作業なんですね。
それを同時にやってしまおうというのが土台無理な話だったんですね。
そういう意味で、きれいな文字で何年も日記をつけている人たちって、それだけでものすごい尊敬の対象になります。
もともと字が上手い人もいると思いますが、基礎からきちんと練習を積んで、きれいな文字がかけるようになっている人が多いと思います。
そして基本が身についてから、段々と速度を上げていって、ものすごい早さで書けるようになっているけれど、かつとてもきれいな略字、行書を書くという流れになっているのだと思います。
小学校のときに漢字ノートとかをサボった?つもりはないのですが、きれいに書くという意識はとても低い子供でした。
綺麗にかくための練習なのに、とりあえず書いて出すことしか頭にはなく、手っ取り早く済ませてしまうことばかり考えていたんでしょうね。
なので正しい書き順を守って、書くということもなく、
「何で同じ文字を何度も書かせるんだ」
とぶつくさ文句を言いながら書いていたに違いありません。
万年筆で文字を書く
鉛筆でもきれいにかけないのに、万年筆できれいに書くというのはさらに難しいです。
ペンの特性を理解して書く必要がありますよね。
綺麗にかければ、万年筆は、ボールペンと違って、味わいのある文字になります。
下手くそなので、ボールペン以上に変な文字になってしまうのですが、万年筆で書くのが好きなので、今もメモ程度は万年筆を使っています。
現在のメインで利用しているのは、プラチナの美功というタイプ。
細軸でペン先は小ぶりだけれど特有のしなりがあり書きやすいです。
細軸が苦手な人には若干持ちづらいところはあるかもしれません。
もう一本はプラチナの#3776センチュリーというもの。
これはとてもいいです。
かなり堅めの書き味という印象ですが、美しい文字が書けるような気がします。
太さも長さも標準的で、まさに万年筆という雰囲気。
ちなみにどちらも仏壇カラーといわれる、金色と黒の色合いのペンですね。
ちなみにこのペン以外にも、いくつか万年筆はありますが、すべて安物です。
中華万年筆はもう、笑っちゃうくらいお安いので、Amazonでついついポチってしまうのですが、見た目はともかく、書き味は良くないですね。
やはり万年筆の品質は日本製が一番良いと思います。
海外ブランドも高級品は一味違うのでしょうが、モンブランやペリカンなどの高級品にはまだ手が出ません。
また万年筆がマイブームになる時期が来れば、買いたくなるのかもしれません。