悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

野村克也

残念なニュースだった。
若い人たちにとってはご意見番の張本氏と同じようにボヤキばかりでうるさい老人のイメージしかないかもしれないが、私の世代にとっては非常に有名な選手だったし、指導者としても色々なチームで腕をふるった人物である。
また野球界だけでなく、野村氏は多くの本を出しており、ビジネスマンにとっても価値のある言葉が多い。
南海沿線に住んでいる人間で、子供時代は南海ホークス子供の会に入っていた。年会費500円の時代。試合はよほどのことがない限り無償で外野席、内野席に入れる。
野球のユニフォームのようなTシャツが流行していた。多くの人は長島、王といったところ。阪神ファンなら田淵だった。私は南海ホークスで19番のTシャツを着ていた。江夏と江本のトレードなどがあり、南海ホークスも低迷していく時代だった。
監督兼捕手で4番という普通に考えればすごいことなのに、私の子供時代には野球があれだけ人気があったのに、パ・リーグは全く無視されていた。
野球人気というよりも巨人の人気が異常だったのかもしれない。プロスポーツの一つだが、変な世界である。大相撲と同じくらい閉鎖的でいびつな世界だったと今になって思う。
さてそんな中であれだけの記録を残しているにも関わらず、王、長島というスターの影になって、自ら「月見草」というふうに言っていた時代もあった。亡き仰木彬氏が、野村氏が「月見草」と言っているのを「野村さんが月見草なら俺等は雑草」と言っていたのをよく覚えている。
テスト生で入団したこともそうだし、クビになりそうだったこともそうだが、全く期待されていなかった。その野村氏が選手として成功を収めた事自体がすごい。プロとして一人前になるだけでも大変なのに、記録では王貞治氏に抜かれはしたが通算本塁打は2位。同い年の長嶋茂雄氏に対してはあからさまなライバル意識もあって、国民的人気者と比較される立場にあり、嫌いな人も多かっただろうと思う。
現役時代から監督業をやっている人であったが、南海を追い出され、それでも現役選手としてしがみついて45歳までプレーを続けたこと時代も驚異的。さらにその後、指導者としてもすごい実績なのである。
確かに勝ち数だけでなく負け数もほぼ同じなので、勝率だけみると名将と言えるのか?という人もいるが、あの暗黒時代の阪神監督時代や楽天時代は本当に弱い球団を率いてきたわけである。ヤクルト時代も決して強いチームではなかった。その中でこの数字はすごいことである。
少ない戦力でどうやりくりするかということを考える人。編成は球団が行うことで、監督は与えられた駒でどうやりくりするかということを実践してきたのである。
野村克也氏のことを思えば色々と話は尽きないと思う。関わった人も多く、名残惜しい。

長年、野球界に多大な功績を残されたことに感謝し、心より、ご冥福をお祈りします。

Copyright ©悪魔の尻尾 All rights reserved.