悪魔の尻尾

50代から60代へ~まだあきらめない

ドライブ・マイ・カー アカデミー作品賞ノミネート

今年こそは!と期待されていたアカデミー賞ですが、作品賞、監督賞など4部門でノミネート。
結局取れたのは国際長編映画ということで、これはおくりびと以来のことらしいです。

というわけで、やはり見ておかないといけないなと、U-Nextにて視聴しました。

すでに原作本は読みました。
「女のいない男たち」という煽るようなタイトルです。
短編小説集で、「ドライブ・マイ・カー」はその本の冒頭にある作品。
わずか100ページに未満たない、多分1時間位で読める分量ではないでしょうか。
それがこの映画は3時間ほどのとても長い映画です。

 


この映画の概要

監督:滝口竜介

原作:村上春樹 「女のいない男たち」より

脚本:滝口竜介、大江崇允

公開:2021年8月21日

製作国:日本

上映時間:179分

製作費:約1億5000万円

興行収入:14,700,000ドル

 

キャスト

家福:西島秀俊
主人公。俳優で演劇の演出家。

渡利みさき:三浦透子
国際演劇祭の規則で家福に用意された運転手。

家福音:霧島れいか
家福の妻。
2年前にくも膜下出血で死亡。

高槻:岡田将生
妻の音から過去に紹介された若手俳優
国際演劇祭のオーディションにやってくる。

柚原:安部聡子
国際演劇祭のコーディネーター

コン・ユンス:ジン・デヨン
国際演劇祭のコーディネーター。

ジャニス・チャン:ソニア・ユアン
高槻とともにオーディションを受けた中国人俳優

イ・ユナ:パク・ユリム
手話を使う韓国人俳優


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感想

非常に評価の分かれる映画だと思います。
悪くはないけれど、個人的にはつまらなかった映画の部類になりますね。
と辛口の評価になってしまいます。
賞を取ったから期待度が上がってしまったというのもあります。
とりあえず長いです。
3時間はやっぱり長いですね。
ただ、見ていられないか?と言うほど退屈な映画でもありません。
ただ、盛り上がりにかける映画で、映画で何かを期待しようとしていたら、肩透かしに合う映画だと思います。

ものすごく高い評価を得たこの作品。
そして滝口竜介監督もものすごく称賛されています。
たしかに丁寧に描かれた映画だというのはわかります。
でもそういうのなら、この前の作品である「寝ても醒めても」もとても丁寧に作られた映画であり、個人的には「ドライブ・マイ・カー」よりも良かった気がします。
「寝ても醒めても」はどうしても東出昌大さんと唐田えりかさんのスキャンダルがあり、そちらが目立ってしまっていますが、ドラマに変化があります。

 

それと比べると非常に盛り上がりのかける映画で、中でもチェーホフの舞台、演劇のことが中心となって、この映画の大部分が費やされているため、かなりだるいのです。
チェーホフが好きな人にはいいのかも知れませんが、そもそもチェーホフ自体がとても分かりづらいです。
大体の邦画がこの調子であり、舟を編むと同じようにのんびりと味わいながら見る映画だろうと思いましたね。


妻と一緒に見たのですが、妻はまずまず良かったという意見。
私は、悪くはないけど、賞を取るほど素晴らしいとは感じませんでした。
妻いわく「賞を取る映画ってだいたいそんな感じだし」。
確かにそうかもしれないと思いましたね。


原作で描かれなかった部分は原作者がどこまで関わったのかわかりませんが、かなり原作とは違うような気がします。

というか、原作の「女のいない男たち」の他の作品からの内容がとても関わってきます。
特に「シェエラザード」という作品は、冒頭のシーンで亡くなった妻とのベッドシーンで語られる一コマ。
そして妻の不倫の現場を目撃し、ショックを受けて逃亡するシーンも原作にはなく、「木野」という作品に含まれているシーンだとすぐにわかりました。

妻役の霧島れいかさんの演技も微妙に感じました。
それ以上に国際演劇祭のコーディネーターである女性を演じていた方の演技も微妙というか、棒読みでした。
おそらく、どちらもあえてそういうふうに演じるようにという指導があってのものと思うのですが、どういう意図があったのか不明です。

それ以外にも原作にはチェーホフの演劇というのはほとんど出てきません。
更には愛車のサーブですが、色は黄色のはずなのに赤になっています。
赤のほうが映画として映えるからということらしいのですが、赤のサーブならそれほど珍しい色ではないと思うのですね。
妻とともに二人で話し合って購入した愛車のはずなので、色ってとても大切な要素だと思うんですけどね。

また原作にはない、運転手のみさきと家福は、みさきの生まれ故郷である北海道に行きます。
そこで家福はみさきの過去を洗いざらい聞くことになるのです。
ラストシーンは、韓国で幸せそうな表情を浮かべるみさきの姿と愛車のサーブです。

割と辛口の映画評となってしまいましたが、期待度が大きかったからで、おそらく見る人によっては、とても感動したりもするのだろうと思います。
映画が終わって大きな喪失感があったという人もいるようでしたからね。

 

 

 

 

 

JOLT ジョルト 

Amazonオリジナルということなので、劇場公開作品というのではないようですね。
とは言え、十分映画としてのクオリティのある作品です。
AmazonスタジオもNetflixに負けじと、映像コンテンツには力を入れているみたいですね。

ストーリーはわかりやすく、アクションも豊富。
ちゃんと大どんでん返しがありますが、キャストの時点でわかりそうな気もします。



作品の概要

監督:ターニャ・ウェクスラー

脚本:スコット・ヴァーシャ

製作国:アメリ

公開:2021年アメリ

上映時間:91分

キャスト

リンディ(ケイト・ベッキンセイル
怒りが爆発すると暴力的になる女性。
それを制御するために電流が流れるベストを身に着け、ボタンを押してコントロールしようとしています。

マンチン医師(スタンリー・トゥッチ
リンディの病気をサポートする精神科医

ジャスティン(ジェイ・コートニー
リンディが初めて恋に落ちようとした男性だが、謎の死を遂げる

ヴィカーズ刑事(ボニー・カナヴェイル)
ジャスティンの殺人を操作する刑事

ネヴィン刑事(ラバーン・コックス)

ストーリー

リンディは幼い頃より、悪いことを目にすると、タガが外れたように暴力的になってしまうのでした。
それを抑えようと様々なことを行いましたが、彼女の超人的な能力を抑えることがで来ませんでした。
今は、精神科医のマンチン医師によって、電流を流す装置を体につけ、タガが外れそうになったときにスイッチを押すことで電気が流れ、自制心を保つようにコントロールしているのでした。

マンチン医師は彼女に人と触れ合うことが大切だといいます。
そして男性とのデートも必要であることを伝えます。
紹介された男性は会計士のジャスティンでした。
彼女は暴力的なところがあるため、男性に心を許すことができませんでしたが、ジャスティンは優しく、彼女は初めて恋に落ちそうになります。

ところが、ジャスティンが何者かによって殺害されました。
リンディは警察に参考人として呼ばれます。
ヴィカーズ刑事は恋人になりそうな大切な人を失ったかわいそうな女性として扱おうとしますが、ネヴィン刑事は彼女が犯人ではないかと疑います。

リンディはヴィカーズ刑事たちがきちんと操作してくれるとは思えず、警察の内部から資料を入手し、独自に犯人を追い始めるのでした。
そして彼を殺したガレス・ファイゼルという人物を突き止めることができたのですが、ヴィカーズ刑事は裏社会のボスでもあるガレス・ファイゼルからは手を引くように告げます。


感想

映画を結構見る人にとっては、見たことのある顔がいくつか出てきます。
主演のケイト・ベッキンセイルは「アンダー・ワールド」シリーズやリメイク版の「トータル・リコール」、「ヴァン・ヘルシング」にも出ていました。
この映画の主人公の配役にはイメージ的にぴったりです。
もう少し若い女優を使っても良さそうな気もしますが、実年齢はもう50歳近くになりますからね。
そして精神科医を演じるのが「プラダを着た悪魔」でかなり顔が売れたスタンリー・トゥッチ
脇役として非常に貴重な俳優でしょう。
裏社会を牛耳るボスを演じていたのが、デヴィッド・ブラッドリーで、「ハリーポッター」シリーズのフィルチといえばわかると思います。
独特の風貌ですよね。

現在の映画の標準的な長さに収めてあって、見ていて疲れない時間。
サクッと見て、サクッと忘れそうな映画です。

テンポの良いアクション映画を簡単に見たい方にはぴったりな映画でしょう。

 

 

ケイト・ベッキンセイルの特別のファンでもありませんが、この映画もなかなか雰囲気がありましたね。
今回の映画とは違って、ストーリを楽しめるタイプの映画です。

 

 

かなり以前見た映画ですね。
ヴァンパイアとライカンとの戦いを描いたシリーズです。
このシリーズの印象が強いですね。
ケイト・ベッキンセイルはやはり強い女性が似合いますね。
このシリーズの1作目は2003年ですから、ヴァン・ヘルシングよりも少し前ですね。

 




超ネット社会の成功術 苫米地英人

残業で帰宅が遅くなりました。
帰宅して、オフロに入って晩ごはんを食べたらこんな時間に。
本当はこんな時間に食事は良くないのですけど、耐えられませんでした。

さて、通勤中にKindle Paperwhiteで読書をすることが多いのですが、こちらも先日読み終えたものです。

最近少し続けて苫米地さんの本を読んでいます。
怪しさがあって、胡散臭いと思う方も多いと思います。
(私もそういうふうに思っていた一人です。)

このテーマはこれで、読み応えがありました。
超ネット社会はなんぞや?というところから定義が始まります。
そして人間は情報によって出来ている

 

 

 

目次

プロローグ

第1章 「超ネット社会」のほんとうの意味-テクノロジーと脳機能

第2章 「超ネット社会」を制するもの-心の技術と洗脳のリスク

第3章 「超ネット社会」をどう生きるか-脱洗脳と自由

第4章 「超ネット社会」を超える行き方-情報空間で圧倒的に成功するために

おわりに-釈迦を超える生き方を目指して

 

内容

人間の脳はすごいんです。
テクノロジーはただの「技術」であり「道具」に過ぎません。
人間の脳は1万年~5000年くらい前にほぼ進化を終えており、テクノロジーはその脳の進化を追いかけているだけなのです。
脳という完璧に近い情報処理システムがあり、テクノロジーがやっと追いついてきたと考えるべきなのです。

人間の脳は「情報空間」に対しても臨場感を持つことができます。
文字を発明し、それによって時間と空間を超えた抽象思考ができるようになりました。

今最新と思えるテクノロジーも実はそんなに新しくはありません。
パソコンのOSやSNSクラウドなども最先端のテクノロジーではなく、60~80年代のコンピューター・サイエンティストが開発した「古いテクノロジー」です。
アメリカの軍、産業界が国防的、ビジネス的においしいと目をつけ、お金がいついたから広まっただけで、「最新のテクノロジー」を追ってみても意味はないのです。

人間とは、進化の過程で手に入れた先天的な情報と、生後身につけた後天的な情報が集積した、きわめて「情報的な存在」なのです。

ソフトウェアは、人間の脳と心を模倣して作られています。人間の脳のほうが、完全に近い情報処理システムです。
人間とは極めて「情報的な存在」なのです。
そんな「情報的な存在」である人間は、洗脳に弱いのです。コンピューターネット上に「情報ウイルス」が流されると、そこに強い臨場感を持っている自我や人格は、簡単に情報を書き換えられてしまうのです。

感想

この本と並行して「現代洗脳のカラクリ」という本も読んだのですが、その本とカブる部分が多かった印象です。
他の本もそうなのですが、苫米地氏は恐ろしいほどのペースで本を出しています。
ゴーストライター?という噂もありますが、とりあえず頭の言い方ですから、そうではないと思いたいです。
そしてどれも結構読み応えがあります。
超ネット社会の根幹はインターネットであり、それはハイテクで最先端のようでそうでもナイトのことです。
ちょっと驚きましたが、考えてみれば、パソコンの原型がかんせいされてからすでにかなりの年数になります。
商業ベースで安いプロセッサやメモリ、ストレージというものが量産効果によって広まっていきました。
そう考えると納得できる部分もあります。

本文から引用すると、
アメリカの国防政策やビジネス的観点によって、数あるテクノロジーの中から「国防的に利用価値が高い」もしくは「ビジネス的に成功の可能性がある」テクノロジーが選ばれているだけです。

ビジネスのツールとして使うのは自由ですが、テクノロジーは遊びであり、社会を変える力はないということをしっかり理解しておくべきです。そうしなければ、テクノロジーに振り回され、盲信的なテクノロジー信仰に陥ってしまいます。

 

 

確かにネット関連、新しいWebサービスとか言われると、流行の最先端、ハイテク!と思いがちですが、テクノロジーの観点から言うとそれほど尖っていないものなんですね。

臨場感という言葉も度々出てきます。
リアリティって何か?
脳にとっては電気信号に過ぎず、それが本当にそこにあるかどうかは人間の脳が判断しているだけというくだりもありました。

マトリックスの映画のシーンを思い出しましたね。
まさに目の前にある物理空間も人間の脳が判断していることと考えると、リアリティとはなんぞやと考えてしまいます。
目で見てそこにあることがわかっているから「現実」で、触って手触りや重さを感じるから「現実」。
総判断しているのは脳であり、脳内の電気信号と考えれば、全く同じ電気信号を与えてやれば、現実と何ら変わらないことになります。
その技術の代表的なことがバーチャルリアリティでしょう。
まだまだ現実と思わせるには足りないですが、臨場感は増しています。
イラストなどの絵よりも写真がリアルですし、写真よりも動画のほうがよりリアルに感じます。
VR動画となると脳はまさにそこにあるような錯覚を起こします。

臨場感は何も現実にそのように感じさせるというのがテクノロジーだけではありません。
人間は素晴らしい文章に触れたときに涙を流し、美しい映画を見て感動します。
それが「現実」ではないと知りながらも、そこには「臨場感」があり、現実ではなくても人間は大きな影響を受けます。

現実ではなくても人間は情動的な存在なのですね。
だからこそ、情動的な状態になっているときに、特定の情報を与えることによって、人に影響を与えることが可能になっている=洗脳状態、を作り出すことができるのですね。

デジタルテクノロジーに支配されないための提案もありました。
テクノロジーによってニーズが生み出され、そのニーズを満たすためだけに使っている人が多いと言うのは全く同意です。

こうやって書いている個人ブログも苫米地さんにしてみれば、無意味な作業にすぎないのかも知れません。


「情動を排して、自分のゴールを決める」
そのゴールのためにはテクノロジーを利用すれば良いといいます。
喜怒哀楽の感情=情動は洗脳の道具に使われてしまうので、それらを排除しなければならないということですが、なかなかそんなことはできそうにもありません。
ただ、そういう情動を使って洗脳しようとする、人を操るというしくみを知ることは大切なことだと感じましたね。
そしてそのゴールというのも、しかけられたwant toではなく真のwant toでなければ意味がないということも理解しました。
ただ、真のwant toというのは煩悩の塊でもある普通の人間、私にはとてもたどり着けないところなのかもしれないとも感じています。

 

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